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第35話
初めて口にした醜い感情は、そのまま涙と共に僕の身体から外へと流れ出ていったみたいだった。
ひとしきり泣いて、泣いて、泣いて。ひくひくと情けなく漏れていた嗚咽がようやくおさまれば、心は嘘みたいに軽くなっていた。
「もう、大丈夫です。……ありがとうございました。」
掠れた声で何とかそれだけ伝えて、僕はオリヴァーの肩口から顔を上げた。
狭い車内でずっとオリヴァーの膝の上に乗る形で彼に縋り付いていたから、いいかげん離れなければ。
そう思ったのだけれど、オリヴァーは僕の腰に回した手を緩めてはくれなかった。
「あの、オリヴァー?」
ぎゅっと抱き寄せられ、僕の身体はまたオリヴァーへと倒れ込む。
今更だけど、これ、今物凄く恥ずかしいことになっているのでは。あのヴァイオリンの貴公子、オリヴァー・グリーンフィールドの膝に乗って抱きしめられているなんて。
じんわりと感じる温もり。ふわりと香るシトラスの香水。
我に返れば、僕の心臓は破裂せんばかりに早鐘をうち始める。
それでも、オリヴァーは離してくれるつもりはないようだった。
「……なぁ、シーは本当にヴァイオリンは弾かないのか?」
耳元で囁かれる声に心臓を跳ねさせながらも、僕は彼の胸に身体を預けたままこくりと頷く。
「言ったでしょう?もう諦めたんです。ヴァイオリンも、もう売ってしまいましたし。」
誰も聞いてくれない音を奏でたって意味は無い。大学を卒業する時に、もう弾かないときめたんだ。
そう口にすれば、僕の腰に回された手にぎゅっと力が込められたのがわかった。
「……過去形にしなかったくせに。」
「え?」
「音楽が好きだと、泣いたのにか?」
そろりと顔を上げれば、寂しげに僕を見つめるオーシャンブルー。
眉間に皺を寄せ、今にも泣いてしまうんじゃないかって言うくらい切なく歪められたその瞳に、僕の心臓はぎゅっと握りつぶされたかのように痛んだ。
「……オレは、シーと弾きたいと思ったんだがな。」
「ぁ、」
どうして、この人は。どうして、こんなにも僕の心を揺さぶるんだろう。
バクバクと荒く脈打つ心拍。
息苦しいほど切なく軋む心臓。
オリヴァーの手がのびてきて、乾いた涙のあとをひと撫ぜする。
「シー、」
泣きすぎて腫れているであろう目元をなぞった指はそのままするりと僕の頬を辿り、僕の輪郭をなぞっていく。顎に残された小さな痣を、優しくたどる指。その長く綺麗な指先が僕の顎をほんの僅かに持ち上げ、オーシャンブルーの瞳が綺麗に像をむすべないくらいに近づいてくる。
早鐘を打っていた心臓が、トクンとひときわ大きく跳ねて止まった気がした。
「あの、オリヴァー…」
「もう泣かれるのはごめんだからな。嫌ならちゃんと拒め。」
唇にかかる吐息。
視界いっぱいに広がるプラチナブロンドとオーシャンブルー。海よりも深く澄んだ青が、じ、と真っ直ぐに僕を映している。
それは、僕にとっては息もできないくらいに眩しい色で。僕は思わず瞳を閉じてしまっていた。
「シー、」
吐息とともに温もりはすぐに唇におとされる。
食むように触れてきた熱はあっという間に離れて、そしてまた落とされる。
拒まなくちゃ。
そうわかっているのに僕の身体は動かなかった。
僕の反応を探るように優しく触れてくる唇に、心臓が甘く切なく疼く。
オリヴァーの膝に乗ったまま、僕は彼のシャツをそっと掴んだ。
「ん……っ、ぁ、」
合わさった唇の隙間から滑り込んできた熱は僕の口内を優しく暴いていく。口蓋をなぞり、歯列をたどり、舌と舌を絡めて吸い付くように口づけられる。
昨日のように乱暴な、一方的なものじゃない。身体がとろりと溶けていくような甘い口づけに、頭の血液が沸騰していく。
どうして。なんで。
いいわけない。だってこの人は、オリヴァー・グリーンフィールドなのに。
甘さと熱に思考が溶けていくほどに、心臓を掴まれたような息苦しさが増していく。
ズキリと胸の奥の痛みが限界に達して、僕はついにはオリヴァーの胸を押して口づけから逃げた。
狭い車内が、二人分の荒い吐息で満たされていく。
「お、リヴァー……どうして、」
「さぁ、どうしてだろうな?」
乱れた呼吸のまま尋ねれば、オリヴァーは肩をすくめ、オーシャンブルーの瞳を優しく細めた。
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