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第36話

オリヴァーは膝上に僕を乗せたまま僅かに身を起こすとダッシュボードへと手を伸ばした。そこに投げ置かれていた僕の眼鏡を手にしてそっと僕の顔へと戻す。 「今日はこの辺にしておいてやる。弱っている相手につけいるのは趣味じゃないんでな。」 「あの、……」 「ほら、帰るぞ。」 ぽん、と背を叩かれ促されるままに僕は運転席に戻された。 え、っと。今、たしかにこの人とキス、したのに。 触れ合った唇が、まだ熱を持っている気がする。それなのに、オリヴァーはまるでそんなことなかったかのように助手席の背もたれに深く身体を預け、その長い脚を組む。 早く車を出せとその態度は如実に語っていて、僕は黙ってそれに従うしかなかった。 コインパーキングを出てオリヴァーの宿泊するホテルへと向かいながらも、僕の頭の中には先程までの光景がリフレインしていてどうにも落ち着かない。 いや、落ち着けるわけない。だって、抱きしめられて、キスなんて。 「……なんで、」 答えの出ない疑問は、ついには声になって出てしまっていた。 前を見て運転しながらも、外を眺めていたオリヴァーの視線が僕に向けられたのが気配でわかった。 「……シーはオレがなぜ初めからお前をヴィオリストではなくヴァイオリニストだと確信していたかわかるか?」 「へ?」 ポツリと漏らされたのは、答えではなく新たな疑問。 「顎の痣だけならヴィオラかヴァイオリンか判断できんからな。それでもオレはシーが弾いていたのはヴァイオリンだと確信していた。なぜだかわかるか?」 「えっと、……」 突然の事に理解が追いつかず固まっていると、オリヴァーはダッシュボードに置いていたキャップに手を伸ばし、ひらひらと僕に見せるように振った。 オリヴァーの素性を隠すため、昨日僕が購入したキャップとサングラス。お気に入りのブランドであることは以前読んだ雑誌の取材記事で知っていたけれど、それが投げられた疑問となんの関係があると言うのだろう。 「このブランドを愛用していると、雑誌の取材に答えたのは記憶が正しければ一度きりだ。……アメリカの、クラシックそれもヴァイオリンの専門誌。マニアックすぎて翻訳なんて当然されていないが、ファンは世界中にいるらしいな。」 「……、」 それは、僕が電子版を定期購読している雑誌に違いなかった。 そうか。つまりはオリヴァーには最初から全て知られてしまっていたのか。 ヴァイオリンはもう諦めたと、辞めたと口では言いながら、完全には思いを断ち切れずに雑誌を読み漁っているなんて。どれほど往生際の悪い情けない人間なのか、オリヴァーは全てわかっていたんだ。 「……滑稽だったでしょ。弾かないとかいいながら、未練がましく本なんて読んで。」 ああ、だからヴァイオリンを断ち切れない僕はからかう相手にはちょうどいいと思われたのだろうか。 けれど、オリヴァーは僕の言葉を耳にした途端眉間にぐ、と深いシワを刻む。 「滑稽だ?笑えるわけがないだろう。」 ちょうどホテルの前に着いて車を停めたタイミングで、助手席から伸びてきた手に思いっきりネクタイを掴まれた。 僕を真っ直ぐ見つめるオーシャンブルーの瞳には僕を揶揄しようなんて意思はこれっぽっちも感じられない。真剣な眼差しに射抜かれて、僕はごくりと息を飲んだ。 「ひどい仕打ちを受けて、努力した時間を裏切られて。それでもなお、お前は音楽が好きだと泣いたんだぞ。」 ネクタイを握りしめていた手が解かれ、その手はするりと僕の頬へ。助手席から身を乗り出してきたオーシャンブルーが、ゆっくりと僕へ近づいてくる。 「こんなにも純粋で熱烈な愛を、美しいと言わずしてなんと言う。少なくとも、オレはこれ以上に綺麗なものを見たことがないな。」 「な、」 ぎゅうっと胸が締め付けられて呼吸が止まる。 夢でも見てるんじゃないだろうか。 自分に向けられた言葉が信じられなくて瞳を瞬かせていたら、僕の頬をひと撫ぜした指が僕の顔から再び眼鏡を抜き取った。 心臓がバカみたいに大きな音を立てて跳ね回る。全身の血液が沸騰しそうなくらい熱くて、くらくらする。 端正な顔が僕を見つめたまま近づいてくるのを、僕は瞬きすら忘れてただ見ていた。 優しく唇に落とされる温もり。 ちゅ、とわざとリップ音を残した口づけはあっという間に離れて、オリヴァーの口元はニヤリとわずかに口角を上げた。 「次に日本にくるのは二週間後だ。それまで、オレとヴァイオリンの事だけ考えていろ。」 そっと顔に戻された眼鏡越しに、不敵に笑うオリヴァーの顔。 「っ、あの…」 混乱したままの僕をよそに、オリヴァーは膝に置いていたキャップを被り、ダッシュボードに置いていたサングラスをかけ、素早く身支度を整えるとそのままドアを開け車から出ていってしまった。 バタンと目の前で無情にも閉まるドア。残されたのは僕一人。 「……うそ。」 唇を奪っておきながら、なんの言葉もないままオリヴァーは後ろ手にヒラヒラと軽く手を振りながらホテルへと消えていった。 おさまらない火照りと僕の唇に消せない感覚を残したまま。 「な、んで。なんで、こんな……」 ぐちゃぐちゃな感情の行き場なんてどこにもなくて、僕はハンドルに突っ伏すことしかできなかった。

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