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閑話 バカと神は紙一重

荷物を抱えつつ通い慣れた練習スタジオの重い扉を開けば、スタジオ隅に置かれたソファーから足がはみ出しているのが見えた。 シワだらけのシャツにジーンズ。毎回スタジオ近くのホテルに部屋をとってやってはいるのだけれど、おそらくほとんど利用していないのだろう。 狭いソファーをベッド替わりに仮眠をとる姿は、もう見慣れたものだ。抱き枕代わりなのか防犯の為なのか、愛器の入ったケースを抱えたまま大口を開けて寝ているのはさすがというかなんというか。 貴公子様のファンが見たら卒倒する光景だろう。 「ん、……アマンダ、か?」 ここに着る前に立ち寄って購入してきたバーガーの匂いにつられたのか、ソファーに転がっていたオリヴァーの身体が小さく身じろぎした。 「……今、何日だ?」 「今日でここに籠って一週間よ。ちゃんと食べてるの?」 「あ?……お前がピザ持ってきただろうが。ちゃんと食べたぞ。」 という事は最後の食事はここに様子を見に来た一昨日か。 唸りながらも身を起こし頭を抑えるその様に、こちらの方が頭痛がしてきた。 ヴァイオリンの貴公子と称されるこの男、オリヴァー・グリーンフィールドは、自分に言わせればただの音楽バカだ。 ひとたび楽曲に取り組むと決めれば、今回のようにこの練習スタジオに籠り本気で寝食を忘れてヴァイオリンを弾き続ける。自分の納得がいくまで延々とだ。 今回もアメリカに帰り着くやsikiの楽譜を握りしめ、自宅にも戻らずこの状態。何が楽しいのか全く理解出来そうにないが、雇用契約主である以上、死なない程度に様子をみるのがマネージャーたる自分の仕事だ。 ソファーわきのテーブルに両手に抱えていたバーガーショップの袋を置いてやれば、いまだ半開きの瞳のままオリヴァーは抱えていたヴァイオリンケースを傍らに置き、無言で袋の中身を漁り始める。 そうして適当に手にしたバーガーに齧り付きながらもオリヴァーは床に散乱していた楽譜をかきあつめ、新聞でも読むかのように目を通し始めた。どうやらまだ弾き足りないらしい。 「あのねぇ、いい加減にしないと本当に死ぬわよ。」 「ん。もうモノにしたからな。今日からは家に戻るさ。」 「あっそ。だったらちょうどいいタイミングだったわね。」 肩に下げていたバッグから大きめの封筒を差し出してやれば、ハムスターみたいに頬を膨らませた顔が疑問にしかめられる。 「私宛に届いてたけど、あなたにでしょ、それ。」 「んー?」 もごもごと口を動かしつつ、オリヴァーは受け取った封筒をまじまじと確認する。日本の住所とSui kohiruimakiとご丁寧に記された宛名を見ても、誰からなのかピンときていないようだった。 ああ、そういえば彼の事は本名ではなく妙な愛称で呼んでいた気がする。 「シーからよ。」 仕方なく教えてやれば、オリヴァーのオーシャンブルーの瞳が丸く見開かれた。 「おおっ、それを早く言え、それを。」 中身に心当たりがあるのか、途端に手にしていた楽譜を放り出し、瞳をキラキラと輝かせ雑に封筒を破りはじめる。 「なんでアマンダ宛に送られてきてるんだ。」 「彼が優秀だからよ。あなた宛に送ったらファンからの荷物に紛れて届くのが遅れるでしょ。」 「おー、なるほど!さすがシーだな。」 一体何をそんなに興奮しているのかよくわからないが、封筒の中から緩衝材に包まれた荷物が顔を出すとオリヴァーはその口元をにんまりとつり上げる。 オリヴァーの隣に腰を下ろして手元を覗きこめば、それはどうやらDVDとCDのようだった。どちらのジャケットにも同じようなイラストが描かれている。 「何それ、アニメーション?」 「sikiの音楽監督作だ。これはなぁ、素晴らしい芸術作品なんだぞ!」 「……へえ。」 映像の美しさがどうと拳を握りしめ語り始めたオリヴァーはもちろん適当に聞き流す。 この男がこれだけ騒ぐのだから芸術的な美を感じる作品であることは間違いないのだろうけれど、気になったのは中身よりも差出人だ。 「シーとは和解できたみたいね?」 日本に滞在中、気に入ったのか連れ回していたsikiのマネージャー。気まずい関係からは脱せていたように見えたにもかかわらず、日本を発つ直前のオリヴァーの様子ばどこか違和感があって気になっていた。 時折物思いにふけりため息を吐く姿を何度か目にして、もしかして完全には和解できなかったのかと心配していたけれど、どうやら杞憂だったようだ。 「友人として上手くやってるみたいじゃない。」 「ん?……んー、それじゃあ困るんだがな。」 「?」 さきほどまでのテンションとは一転、返ってきた答えは何故か微妙なものだった。 こうして荷物のやり取りをするくらいには友人としての関係を修復しているはずなのに、なんとも歯切れの悪い返事だ。 「……友人じゃなぁ。」 何やらボソボソと呟いたオリヴァーは破り開けた封筒へ手を伸ばし、他にも何か入っていないかと中身を覗き込む。 何かを探していたのだろうオーシャンブルーの瞳は、中に残されていたレター封筒を見つけ嬉しそうに口元を緩める。 けれど、そこに書いてあった宛名を見た瞬間、その口元はぎゅっと引き結ばれた。 「……アマンダ宛だ。」 Ms.Amandaと控えめな文字で記された封筒をこちらに差し出し、オリヴァーは心底嫌そうな顔をしてみせる。 「なんで私が睨まれないといけないのよ。」 「ふん。気のせいだ。」 口ではそう言いながらも口は見事にへの字に曲がっている。 お気に入りのオモチャを取られたような感覚なのだろうか。どうせ中身は事務的な挨拶、貰って嬉しいものだとも思えないのだけれど。 早く開けとその瞳が無言の圧をかけてくるのでとりあえず封筒を開け中身を取りだしてやる。二つに折りたたまれた手紙を取り出せば、中から何かがこぼれ落ちた。 「ん?なんだ、これ。」 オリヴァーが拾い上げたそれは、紙で作られた鳥だった。インディゴブルーに日本でいうところのキモノに描かれているような美しい花柄が入っている。 「折り紙ね。」 「オリガミってあの正方形(スクエア)の紙の事か?」 「そ。それを折って作ってるのよ。crane……日本語でツル、ね。グリーディングカードの代わりにあなたに、だそうよ。」 予想通りの挨拶文の書かれた手紙をひらひらと振って見せてやれば、オリヴァーは勢いよく私の手から手紙をひったくった。 お堅いビジネス英語で先週はsikiがお世話になりました、次のコンサートではよろしくお願いしますと型通りの文章の最後に、同封物をオリヴァーに渡してほしいと、メッセージが思い浮かばなかったのでグリーディングカード代わりに折り鶴を渡してくださいと綴られていた。 オリヴァーは手紙に一通り目を通すとテーブルに置き、ほう、と長い息を吐いた。 「……シーの手はこんなにも綺麗なものを生み出せるんだな。」 折り鶴のシッポをつまみ上げ、光にかざしてみたり、翼をつついてみたり。 ただの紙で作られた鶴に向けるその視線は、今まで見たことがないくらいの優しさと愛しさに溢れていて、思わず息を飲んだ。 この男が、こんな顔するなんて…… 「ねぇ、オリヴァーあなた…」 「アマンダ、やっぱりこのスタジオもう一日延長しろ。」 言いかけた言葉は、突然その場に立ち上がったオリヴァーに見事に遮られた。 「決めたぞ、オレは神になる!」 「…………は?」 食事も睡眠もまともにとっていなかったせいで気でも狂ったんだろうか。 大丈夫かと問うよりも早く、こちらに向き直ったオリヴァーは興奮気味に目を輝かせて言葉を続ける。 「愛されたかったらしいからな、ここはオレが音楽の神になってやらねばな!」 あー、どうやらよからぬスイッチが入ってしまったらしい。 聞きたいことは山ほどあったけれど、折り鶴片手にくつくつと不敵に笑うオリヴァーを前に、かける言葉を見失う。 音楽バカが神になるのか、ただのバカになったのか。……まぁ、多分後者だろうなと、こちらは盛大にため息をつくことしか出来なかった。

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