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第39話

家にある皿ではどうにもならず、仕方なくフライパンごと出した五人前のナポリタン。 1LDKアパートの狭いリビングのローテーブルに置かれたそれをすごい勢いで胃袋に収めているのは、世界に名を知られるヴァイオリンの貴公子ことオリヴァー・グリーンフィールド。 ……これが夢じゃないって、わかっているけど信じられない。 「シー、アイスティーもう一杯くれ。香ばしい味が面白いな、これ。ミソスープも最高だぞ!」 貴公子様が、麦茶飲んでる。 しかも昨晩の残りものの味噌汁にいたく感動してらっしゃる。 これ、マスコミやファンに見つかったら、僕は礼儀をわきまえろと刺されるのでは? そもそもこんな光景誰も信じてくれないかもしれない。……少なくとも僕は信じたくはない。 山のように盛られたナポリタンと味噌汁をあっという間にたいらげた貴公子様は、おかわりの麦茶まできれいに飲み干して満足気に腹をひとなでしてからソファーに転がる。 「食器、片付けてきますからゆっくりしててくださいね。」 「ん、それならオレが、」 「ダメです、結構です。オリヴァーはここにいてください。」 食器洗いなんてこの人にさせるわけにはいかない。 身を起こそうとしたオリヴァーの肩を抑えて全力でお断りしてから、僕はキッチンへ。むぅ、と背後から聞こえた不機嫌そうな声は聞かなかったことにした。 恐れ多い……というより、この人絶対割る。間違いなく割る。万が一指に怪我でもされたら、それこそ僕はアマンダさんの前で切腹ものだ。 「オレだって機械に皿を入れてスイッチを押すくらい出来るぞ。」 「……うちにはそんな高価なものはありませんよ。」 この人に日本人……というより、一般人の感覚を求める方が間違いなのだろう。 食洗機なんて買えない凡人の僕は、スポンジで丁寧に皿を洗っていく。 「……なぁ、シーはなぜ都心から離れたこんな田舎の狭い家に住んでいる?お前はsikiのマネージャーだろ。あいつは自分のマネージャーに満足のいく生活をさせてやれないのか?」 背後から聞こえた不機嫌な声に、思わず作業の手が止まる。 そういえば、オリヴァーと仕事をするのはレコーディングの一日だけだと思っていたから自分について詳しい話をしていなかった。 今更になって気づいたけれど、さて、なんと説明したものか。 「私は、厳密に言うとsikiさんのマネージャーではないんです。レコード会社のただの事務員ですよ。」 「は?」 まあ、そういう反応をするのが普通だろう。 同じ日本人、同職種の人間に話をしても皆同じように眉間に皺を寄せ首を傾ける。だからこそ詳しい説明はあえてせず、名刺にもsikiのマネージャーと記載している。 「siki……色さんは、レーベルに所属していないんです。」 「あいつはフリーって事か?」 「うーん、フリーとも違いますね。うちの会社からCDを出すと専属契約してますから。」 オリヴァーを振り返れば、やはり彼は理解できないと首を捻っていた。 日本でもアメリカでもアーティストはレコード会社と契約する以外にマネージメントをしてくれる会社、アメリカではさらにエージェントと契約をするのが普通だ。でなければ仕事をとってきてもらったり、コンサートを開いたりする事が出来ない。 そして色さんは今のところそのどれもをのぞんでいないのだ。 「色さんはCDを出したいと思った時に出すだけなので。スタジオの手配と、あとは色さんにくる仕事のオファーを選別する程度の仕事しかないので、レーベルに所属する必要はないだろうと。うちの社長の判断で私が少しだけお手伝いさせてもらってるだけなんです。」 CDデビュー前にアニメ映画の仕事が決まり、そこからはその作品を見たとオファーがきて、さらには次の仕事の音楽を聴いてまたオファーがと、ありがたいことに売り込みをする必要もなく色さんの創り出す音は常にどこかから求められている。 マネージメントは必要ない。事務員の仕事と兼任できる程度の事しか色さんはまだ望んでいないのだ。だから色さんはレーベルではなく僕の務めているレコード会社所属というなんとも珍しい形態を取られている。 「そうか……シーはマネージャーじゃないのか。」 「ええ。ただの事務員ですよ。」 洗い終えた食器を拭き、食器棚へ戻す。 オリヴァーはソファーで顎に手を当て何か考え込んでいたようだが、とりあえず理解はしてくれたらしい。 「オレはシーの事を何も知らないんだな。」 唇を尖らせつぶやく声はどこか寂しげで、片付けを終えた僕は自然と彼の隣に腰を下ろしていた。 覗きこめば、オーシャンブルーがじ、と僕を見つめてきてトクリと心臓が音を立てる。 「あの、友人といってもまだ数回しか会ってないわけですし。」 「シーは俺の生まれも歳も、気に入ってるブランドすら知ってるくせにか。」 「いえ、それはまぁ、そうですけど。」 不公平だと拗ねられても、どうしろというのだろう。 「オレの誕生日に家族構成、……オフの日に何してるか言ってみろ。」 「……五月、ですよね、たしか三十日。三人兄弟の御長男で、オフの日にはカフェを巡るのが最近のお気に入りだと……」 素直に知っている事を答えれば、じと、と鋭さを増す視線。僕は耐えきれず視線をそらせた。 色さんの仕事相手だし、……そもそも、気になっていた演奏家だったから。彼の事は雑誌やメディアで情報を集めたのである程度の事は知っていると思う。でもそれは、彼がそれだけ世界から注目される人だからで。平凡な僕の事なんて知ったところで……と思っているのは僕だけらしい。 チクチクと突き刺さる視線は僕に話せと無言の圧をかけてくる。 「……何が、知りたいんですか。」 降参しておそるおそる尋ねれば、圧は少しだけ弱まってその口元がわずかに緩んだ。 「そうだな……今日みたいなオフの日は何してるんだ?シーの休日にオレも付き合ってやるぞ。」 なんだろう、この期待のこもった眼差しは。 掃除、とか口が裂けても言えない空気。 「あの……読書とか、録り溜めていたCSのスポーツチャンネル観たりとか……じゃ、ダメですよね。」 「……このオレが付き合ってやると言っているんだ。まさか一日中家に引きこもっておく気じゃないよなぁ?」 「う、」 なんと、答えろと。 っていうか、これってつまりどこかに連れて行けと脅されているのでは? ずいっと距離を詰めてくるオーシャンブルー。 「ち、近いですって。」 「あー、なんなら家に閉じこもって距離を縮めるのもいいなぁ。ん?」 ふぅ、と口元にかけられた吐息に、僕の身体はビクリと跳ね上がる。 無理。これ以上は無理。 けれども狭いソファーの上に逃げ場なんてあるはずもなく。いや、逃げるためには僕に残された道はひとつしかないわけで。 「…………ちゃんと帽子とサングラスつけてくださいね。」 全てを諦めそう念押すれば、オリヴァーはわかっているとオーシャンブルーの瞳を細め、ご機嫌な顔で笑った。

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