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第40話
シアター内が真っ暗になったと思った次の瞬間には天井に浮かび上がる満天の星空。
おお、と隣から小さく聞こえた感嘆の声に思わず笑ってしまった。
「昼間から星空を眺められるとは思わなかった。」
「ふふ。今日は眺めるだけじゃないんですよ?」
地方の小さなプラネタリウム。オリヴァーには、入口のポスターに何が書いてあったのか分からなかったのだろうが、今日のメインはこの星空ともう一つある。
驚かせたかったから、今回はあえて説明をしなかった。
「ほら、そろそろはじまりますよ。」
ドーム型のスクリーンに映される星々を見上げるオリヴァーの肩を軽く叩いて、視線を空から地上へ。
星空の下、シアター内中央に僅かに当てられるスポットライト。淡い光が映し出したのは、一人のハープ奏者だった。
白いドレスが、まるで神話から抜け出た女神様みたいだ。その指がやさしく弦を撫ぜれば、プラネタリウムの星空の下、音の波が広がっていく。
ほぅ、と隣からまた感嘆の声が漏れた。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲「きらきら星変奏曲」。誰もが一度は耳にしたことのあるあの童謡の主旋律を何度も繰り返しながらリズムを変え、変調し、展開していく。単純でありながら奥深い曲だ。本来のテンポよりもかなりゆったりとした音が、天井に映し出された星々をさらに煌めかせている。柔らかく空気を震わせるその音に、皆聴き入っていた。
「星空の下で演奏会とは、贅沢だな。」
「普段の上映も素敵なんですけどね。月に何度かこうして星空の演奏会を開催してるみたいですよ。」
普段の上映を見るつもりで来たのだけれど、たまたま今日がその日だったらしい。これも音楽の神に愛された人のご加護だろうか。
煌めく星々に、優しく響く音。そこに言葉はなくとも美しいと感じる心は万国共通だ。オリヴァーもかけていたサングラスを外し、周りの観客と同じように瞬く星空を眺めながら心地よさそうに音の波に身を任せていた。
僕らの頭上を流れ星が通り過ぎていく。
「ここにはよく来るのか?」
「そうですね。最近は忙しくて足が遠のいていたんですが、今日は来れてよかったです。」
ありがとうございますと視線を空からオーシャンブルーへと移せば、オリヴァーはなにやらもごもごと口ごもり、視線を泳がせる。
「その、なんだ。ここへは一人で来るのか?」
「え?」
「だから、……誰かと来たりしているのか?」
チラリと僕に向けられた視線に、今度は僕の方が耐えきれなくなって視線を泳がせた。
「わ、私の名前、……彗 は日本語で彗星 の意味があるんです。両親の共通の趣味が音楽と天体で、幼い頃からよくこうしてプラネタリウムに連れてきてもらっていました。実家を離れてからも時々こうして……一人で、来てます。」
誰かと、なんてそういえば考えたこともなかった。
プラネタリウムで星を見るなんて地味な趣味は、同行者を退屈させるだけだとどこかで思っていたのかもしれない。
でも、オリヴァーなら僕の事を笑わず、子供みたいにはしゃいで一緒に楽しんでくれる。そんな確信に近い予感がしたから、迷うことなくここに来ていた。
そうして僕の予感のとおりに、オリヴァーは頭上を見上げて隅から隅まで興味深げに星を眺め、流れるハープの音に耳を傾け、僕に子供みたいにくしゃくしゃの笑顔を向けてくる。
「そうか、星か。……良い名だな。」
「あ、ありがとう…ございます。」
気恥ずかしさに俯けば、隣からす、と伸びてきた手が、膝上に置かれていた僕の手をとった。
「あ、あの。」
ぎゅっと握られる手。
頭上では幾千もの星々が煌めいているはずなのに、顔が上げられない。
つい先程まで我儘で僕振り回していたはずなのに、握るその手には先程までにはなかった熱を感じる。
穏やかだったはずの心の水面が、ざわざわと揺らめきはじめた。
「なぁ、シー。家での続きだ。」
「つづき……?」
顔を上げられないまま答えれば、僕の手を握っていた手はするりと一瞬だけ離れ、今度は指を絡ませるように繋ぎなおしてきた。
「質問の続きだ。……誕生日は?」
「に……二月、二十六日。」
「兄弟はいるのか?」
「いません、一人っ子です。」
ふーん、とその口調は無邪気で楽しげなくせに、触れる手は離すまいと明確な意志を持って指を絡めてくる。
ハープのアルペジオがどこか遠くに聴こえた。
「この二週間、オレとヴァイオリンの事を考えていたか?」
耳元にかけられた吐息が、熱い。
駄目だ。考えないようにしていたのに、これは、これは、
「……考える暇もないくらい、ずっと頭から離れませんでしたよ。」
そろりと顔を上げれば、薄暗いシアター内で、僕を見つめるオーシャンブルーがはっきりと見えた。海のように深い青。
駄目だ。わかっているのに、視線が外せない。
押し寄せる波に足を取られ、深い海に飲み込まれていく。
僕の指を絡めとっていたオリヴァーの手がするりと離れて、僕の眼鏡を抜き取った。
「シー、」
駄目だ。この人は、この青は、僕なんかを映していいはずないのに。
わかっているのに。
眼鏡を奪われて背後に見える星達はぼんやりと滲んでいるのに、目の前のオーシャンブルーは鮮明に、その瞳にはっきりと僕を映して距離を縮めてくる。
「シー。」
僕を呼ぶその吐息が唇に感じられるくらい近づいて、互いの視線が絡む。
僕が瞳を閉じれば、一瞬のためらいの後唇に暖かな温もりが落とされた。
触れるだけのキス。
胸を締め付けられ、思わず吐き出した苦しい吐息はハープの音に消えていった。
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