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第41話

胸が苦しい。深い海に囚われて、息ができなくなっていく。 押しつぶされてしまいそうな痛みに相反して、唇にあたえられる温もり。 なぜか涙腺が緩みそうになりぎゅっと唇を噛み締めれば、触れていた温もりはあっという間に離れていった。 恐る恐る閉じていた瞳を開けば、そこには苦痛に歪んだオリヴァーの顔。 「……そんな顔をさせたいわけじゃないんだがな。」 長く綺麗な指がのびてきて、僕の顔に眼鏡か戻される。 ふぅ、というため息と共に、オリヴァーは座席へと座りなおした。 「ここでする事じゃなかったな。……悪かった。」 「……、」 何も言えなかった。 困るとも、気にしていないとも。だってそれは、僕の本心ではないから。 「せっかくの星と音楽だ。楽しまないとな。」 「……そうですね。」 結局僕達は当たり障りのない言葉を交わして、互いに視線をそらせるように頭上の星々へ。 二人に流れた沈黙の間を、ハープの音が通り過ぎていく。ゆったりとした音が、今は酷くもどかしく感じた。 「なぁシー、この演奏会は飛び入り参加は…」 「……ダメです。そんなことしたら大パニックになりますよ。」 「むぅ。こんなにも美しいステージに参加出来ないとは。オレも次のコンサートはここでやるかな。」 「……ふふ。我儘言わないで下さい。」 さっきまでの事が嘘のようなやり取り。 けれどそうやって普通を装いながらも、きらめく星も、ハープの音も、全く入ってこなかった。 心音がうるさい。全力疾走したみたいに息苦しくて、思わず胸をおさえた。 ありえない。あるわけがない。 わかっているのに、オリヴァーの言葉も、態度も、万に一つもありえないはずの事を僕の脳裏に浮かばせる。 もし、あのままオリヴァーが…… いや、そんなことあるはずない。ないんだ。 だって僕は、この人の隣には相応しくない平凡な人間なんだから。 僕にとってこの人は―― 耳障りな鼓動の音をかき消すように頭をふって、深く息を吐けば、隣からも同じようなため息が聞こえる。 「……なかなか上手くいかんものだな。」 ポツリと漏らされた言葉の意味は、考えないようにした。 ざわざわと揺れる心の水面をなんとか落ち着けようと、僕は頭上に広がる星を見上げ、聞こえてくる音に意識を集中させてこの時間をやり過ごした。 「…それでオレもあそこで弾きたいから責任者に交渉しろと言ったんだがな、シーに却下された。」 「……そりゃ、あんたには狭すぎるだろ。チケットは今以上に争奪戦になるだろうな。」 「心配するな、オーナーにはちゃんとチケットとってやるからな。」 本気か冗談か。けらけらと笑うオリヴァーに、オーナーさんがカウンター越しに呆れとも取れるため息をついた。 都心の駅近くの裏路地にある洋食屋「comodo」。プラネタリウム鑑賞を終えた僕達は隣県から車を走らせ、もはや馴染みとなっているこの店にやってきていた。 途中オリヴァーのリクエストによりお気に入りのアニメ映画の公式ショップに立ち寄り豪快に買い物をしたりはしたものの、それでもまだ夕食には少し早い時間。おかげで店内は貸切状態で、オリヴァーもサングラスと帽子の変装を解いてカウンターで思う存分ナポリタンを堪能している。……お昼に、あれだけ食べたのに。 ついに店の全メニューを制覇したうえで、もっとメニュー増やせと失礼極まりないリクエストまで口にしたせいで、僕は全力でオーナーさんに頭を下げるはめになったのだけれど、寛容なオーナーさんはふ、と小さく笑っただけでテンション高いオリヴァーの話に奇特にも付き合って下さっている。 ちなみに、店の隅に置かれたレジには前回誰かさんがリクエストした通り、クレジットOKのプレートが付けられていた。 寡黙で見た目はちょっと怖いけど、オーナーさん、とてもとてもいい人だ。 「あんたも大変だな。」 異次元の暴食をぼんやりと眺めていたら、日本語でかけられたねぎらいの言葉と同時に僕の目の前に置かれたホットコーヒー。 「あの、これ…」 「常連さんにサービスだ。」 「む、シーだけずるいぞ!」 「あんたは全部食べ終わってからな。」 笑うでもなくいつものように淡々と告げてから、オーナーさんは目の前で空にされていくお皿を無言で洗いはじめる。 「……もう来ないのかと思ってた。」 視線は伏せたまま、日本語でポツリと落とされた言葉に、僕は一瞬何を言われたのかわからなかった。 オリヴァーが気に入っているし、そもそも彼と来る前から僕は雰囲気が好きで時々訪れていた店だ。来ない理由なんてどこにも…… 「むこうさんはあれから店に来てないけどな。それでもあんたにとってはいい場所じゃないだろ。」 「あ。」 ようやく言葉の意味が理解できて、はっとした。 確かに前回この店を訪れた時は、決して終始楽しい時間だったわけではない。今日だって、もしかしたら彼と鉢合わせする可能性だってあったはずなのに。 「……そういえば、そうでしたね。忘れてました。」 確かに嫌なことも言われたけれど、それでも、あの日の記憶は僕の中で嫌な思い出で終わらなかったから。 完全に失念していた自分の間抜けさに思わずふふ、と声に出して笑えば、オーナーさんはお皿を洗う手を止め、ほんの少しだけ目を見開いて僕を見た。 けれど、すぐにまた視線は手元の食器へ。 「……あんた、昼時に来ていつも奥のテーブル席で学生達がピアノだヴァイオリンだ弾くのを見てたろ。」 「……、覚えてて下さったんですね。」 「まぁ、なんとなく気になってな。」 たぶんきっと、僕は変な客だったんだろう。 課題だ試験だとわいわい音楽を奏でる学生達を、純粋に楽しそうに眺めてはいなかったはずだから。どこか複雑な感情を抱きながら、それでも定期的にここに足を運んでしまっていた。我ながら未練がましかったなと思う。 そんな姿を見られていたのかと思うと恥ずかしくて、僕は視線をオーナーさんから手元のカップへと落とした。 いただいたコーヒーを手に取って一口。砂糖もミルクも出されなかったのは、必要ないと覚えていて下さったからだろう。 「最近のあんたは……いい顔してるな。色々大変そうだが。」 「……そうかも、しれませんね。」 だとすると原因は間違いなく隣にいるこの人なんだろう。 チラリと視線を隣へ向ければ、オリヴァーはハムスターみたいに頬を膨らませ、なんとも幸せそうにナポリタンを口に運んでいた。 平凡な僕とは住む世界が違う人。……のはずなのに、隣でこんなにも普通にナポリタンを頬ばっている。 その事実がおかしくて、思わず口元が緩んでしまった。 そうか。僕はこの人といることを楽しいと感じているのか。 気恥ずかしさからわずかにふふ、と口角が上がれば、む、と隣から不機嫌そうな声がした。 「お前達さっきからオレをのけ者にして何を話している?」 ナポリタンを綺麗に平らげてフォークを置いたオリヴァーが唇を尖らせる。 まるで子供のような拗ね方に、僕とオーナーさんは思わず顔を見合せてくすっとしてしまった。 「それは……秘密です。」 「そうだぞ。割って入ってくるなんて野暮なことするなよ。」 「な、なんだ、オレに言えないような話なのか!?」 「っ、ちょ、」 顔色を変えたオリヴァーが僕の肩をつかんで思いっきり揺さぶる。それを見てオーナーさんがふっ、と笑った気配がして、また恥ずかしくなった僕は顔をうつむかせたのだった。 こんなにも近くて、楽しくて、苦しい。 ああ、これはまずい。 わかっているのに、強引に傲慢に襲いかかってきて僕を引きずり込んだ波は、もはや手遅れなところまで僕を連れ去ってしまっていた。

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