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第43話
本当はわかっていた。彼が日本を離れていた二週間の間、僕はそれを嫌という程自覚させられた。
僕は、この人に惹かれてる。
だけど、それは駄目なんだ。僕達は互いにそれを口にしてはいけないんだ。
……そこまで、わかっていたのに。
「んっ、……ふ、」
優しく触れてきた口付けは、触れては離れ、繰り返すたびに熱く深くなっていく。
ついには僕の唇をこじ開け侵入してきて、熱を持った舌が絡み合った。
離れなければ。そうわかっているはずなのに、僕はオリヴァーに手を伸ばしその首元に絡みつく。
わかってる。でも知ってしまった。自分の欲望を、この人が同じように僕を見てくれていることを。
やめなきゃ。触れてほしい。
二つの思いに心臓は引き裂かれたみたいに激しい痛みをうったえてくる。
結局僕は己の望むまま、オリヴァーに身を委ねてしまっていた。
「ん、……ふぅ、ん、…」
ぴちゃりと淫猥な水音をどこか遠くに聞きながら、口内で蠢く熱い塊。上顎を舌先でなぞられ、歯列を辿られるだけで背筋がゾクリと震えた。
頭の芯が甘く蕩けていく。
僕の口内を堪能したのであろうオリヴァーの唇が、ゆっくりと離れていくのを、僕はぼんやりと見つめていた。漏れた唾液が銀糸のように伝ってふつりと切れる。
「……オリヴァー…、」
熱に浮かされた頭の片隅で名前を呼べば、ぎゅっと強く抱きしめられた。
「……ナル、だ。」
「え、……?」
耳元で囁かれたそれは、オリヴァーという名前の一般的な愛称だったはずだ。名前を短縮したollの頭にNを足して、ナル。でも彼は、いつも周りに違う愛称で呼ばせていたはず。
「な、る……?」
思考が上手く働かなくてオウム返しに問い返せば、オーシャンブルーは優しく細められ、オリヴァーはまた触れるだけの口付けをくれた。
「ああ。ナル、だ。……家族にはそう呼ばれてる。」
「っ!」
熱に浮かされ霞みがかっていた頭から、一瞬にして血の気が引いた。
現実が、一気に押し寄せてくる。
こんなこと、していいはずない。
咄嗟にオリヴァーの胸を押して、彼の腕から逃げ出していた。
「っ、だ、駄目ですっ。呼べませんっ!」
だって、この人は。
僕の明らかな拒絶に、オリヴァーの顔が苦痛に歪む。
その手で思いっきり肩を掴まれ、ベッドに押さえつけられた。
「なぜだ!シーはオレが本気だとまだ信じられないのか!?」
「違うっ、そうじゃなくて!」
彼の言葉の意味はわかる。彼がジョークや遊びでこんな事をする人間じゃないってことも。でも、わかるからこそ駄目なんだ。
だってこの人は、
「あなたは、オリヴァー・グリーンフィールドなんです!っ、本気になっていいわけないじゃないですかっ!」
この人はオリヴァー・グリーンフィールドなんだ。
世界に名を知られるヴァイオリニスト。そんな彼と本気で熱情を交わすなんてこと、あっては駄目なんだ。
「なんだそれは!国籍も年齢も立場も関係ないと言っただろう!オレはシーを本気で…」
「すぐに僕の前からいなくなるくせに!」
口をついて出た本音は、叫び声に近かった。
僕を押さえつけていた手が、びくりと震えて動きを止める。その瞳は驚きに見開かれていた。
「……あなたは、オリヴァー・グリーンフィールドなんです。世界中の人に音を届ける人なんです。あなたが愛してるのはグァルネリでしょ?」
この人は音楽と共にあるべき人だ。この人に想いを寄せても、一番は音楽なんだ。
日本なんて小さな国の、平凡な人間のことなんて、相手にしては駄目なんだ。
けれど、オリヴァーは受け入れてはくれなかった。僕の両肩に、彼の指がぐっとくい込む。
「なぜどちらかをとらなければならないんだ!オレはヴァイオリンも、シーも、」
僕を見下ろす泣きそうな顔に手を伸ばし、その唇を自らのそれで塞いだ。
こぼれ落ちそうになる涙をぐっと堪えて、真っ直ぐにオーシャンブルーを見つめる。
「あなたはヴァイオリンをとる。そうでしょう?だってあなたはオリヴァー・グリーンフィールドなんだから。」
この人が音楽と共にある以上、最優先は音楽なんだ。他に気持ちを残せば、それは足枷になる。
傲慢で、我儘で、どこまでも自由に音楽を奏でる。それがオリヴァー・グリーンフィールドという人なんだから。
「それでもオレは…」
「触れたい。そう思うのは僕だって同じです。……でも、…一夜限りの遊びだって、そう言ってくれなきゃ困ります。」
オリヴァーが息を詰まらせる。
それは、残酷な言葉だとわかっていた。それでも僕は、彼を傷つけなければならなかった。
中途半端に想いを交わして関係を結んでしまえば、絶対に後悔する。だって、別れはもう目の前に見えているんだから。
だから、後引くことなく別れられるように、互いに想いを残さないようにしないと。
……そうでないと、僕が辛いから。
耐えきれず、瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
オリヴァーの指がそれをすくい上げてくれて、そのままその手で強く抱きしめられる。
大きなベッドのシーツの海の上、僕達は互いの体温と、震える息遣いを感じていた。
オリヴァーの手が、あやす様に僕の背中を優しく撫ぜてくれる。
「……遊びだと、シーが望むならそう言ってやる。一夜限りの、遊びだと。」
抱きしめる力を僅かに緩めて、オリヴァーが僕の顔をのぞき込む。眉間に皺を寄せ、辛そうに歪んだ顔で、オリヴァーは僕にキスを落とした。
「だがな、遊びでもなんでも……今だけは、シーは俺の物だ。たとえ一夜でも、触れていいと言うのならオレはお前を抱くぞ。」
「……、」
否定出来なかった。
オリヴァーの顔が近づいてきて、また唇が重なる。何度も角度を変えて繰り返されるそれは、段々と深いものへと変わっていった。
「ぁ、…んぅ、……」
一夜でも、本当なら触れるべきではないんだと思う。
だけど、もう駄目だ。知ってしまったから。
この人の熱を。自分の中にある欲望を。もう見て見ぬふりなんて出来そうになかったから。
だから、この感情と決別するために、全てを諦めるために。僕はこの人に触れたい。
するりと僕の服の中に入ってきた大きな手の平に、僕の心臓はドクリと脈打った。
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