49 / 62

第45話

さらり、額を優しく撫ぜられる感触に、ふわふわと漂っていた意識が浮上してくる。 ゆっくりとまぶたを開けば、ぼやけた視界に見知らぬ天井が映った。 「……、」 声がうまく出てこない。 ここ、どこだっけ。ぼんやりと考えたのは一瞬だった。 身体が重い。身が軋むような痛みに、寝返りはおろか指先一つ自由に動かせない。 けれど、次第にクリアになっていく思考の中で記憶が鮮明になっていけば、僕の髪を撫ぜるその手の主もすぐに思い当たった。 「…………いま、何時ですか?」 天井を見上げたままたずねれば、飽きることなく僕の頭に触れていた手がピタリと止まる。 「……さっき日付が変わったばかりだ。」 ああ、とすればだいぶ長い時間気を失っていたらしい。 よくよく自分の状況を確認すれば、服こそ着てはいないものの身体は清められている。オリヴァーの手を煩わせてしまったのだろう。 すみませんでしたと掠れた声でなんとか謝罪の言葉を絞り出し、僕はその場に身を起こそうとしたのだけれど、力が上手く入らない。 自らを支えようとした腕は上手く力を伝えられず、崩れ落ちた身体をオリヴァーが咄嗟に支えてくれた。 「おい、無理はするな。」 「いえ、……帰ります。」 心配の色を宿すオーシャンブルーに、僕はキッパリと言い切った。 ぐ、とオリヴァーの顔が歪む。けれどその口が開かれる前に、僕はふ、と彼に笑いかけた。 「これ以上ここにいたら、諦められなくなりそうだから。」 オリヴァーの反応を返す前に背を向ける。 この関係は一夜限り。初めにそう決めたのだから、ここでちゃんと気持ちを断ち切らなきゃ。 僕とこの人とでは何もかもが違いすぎる。世界に名を馳せる音楽家と、音楽の道を諦めた平凡な事務員。二つの道が交わる事はないのだから。 悲鳴をあげる身体に鞭打ってなんとかベッドから這い出ようとしたのだけれど、背後から伸びてきた手に思いっきり手首を掴まれた。 「シー、」 振り返っちゃ駄目だ。 この想いはのまま振り切らなきゃ。 行くなと、そう言われても、ここにいろと懇願されたとしても、僕達はもうそばにいるべきではない。決意が揺るがないうちに離れないと。そうわかっているのに、僕の手首はきつく握られたまま。振り払おうとしても、ビクともしなかった。 「っ、」 これ以上流されるな。 もう一度、ちゃんとハッキリ伝えなきゃ。 自分に言い聞かせて僕はオーシャンブルーを振り返った。 「オリヴァー、約束通りもう終わりにしましょう。」 ほんの一瞬でも通じ合えた。いいや、一瞬だからこそ触れ合えたんだ。価値観のズレや身分の違い、互いに大事なものの相違。それらの溝は共にあろうとすればするほど深くなり互いを傷つける。 だから、今ここで終わりに。 けれど、オリヴァーは必死に絞り出した僕の言葉に…… ニヤリと、不敵に笑った。 「あー、その事だがなぁシー。オレの答えはノーだ。」 「…………はい?」 ノー、とは。 場違いな笑いと予想外な言葉に思考が止まる。 「え、だって一夜限りだって…」 「シーがそう望むならそう言ってやるとは言ったが、提案を受け入れるとは一言も言ってないぞ。」 「え、」 「だいたい、なんでオレがシーの言う事をきかなきゃならないんだ。」 いやいやいや、ちょっと待って。 当たり前のように言われて、思わずこめかみを押さえた。 頭と腰が激烈に痛い。 え、この人は何を言っているんだろう。 「心配するな。日本にはまだ数日いるからな、それまでにきっちり口説き落としてやる。」 話が……通じてない。 素っ裸のままベッドの上でふふん、とドヤ顔でふんぞり返るその人は、あまりにもいつも通りでいっそ清々しい。 言葉を失った僕を見てオリヴァーが上機嫌に笑い、ずいと顔を寄せてくる。 「オレはな、本気で欲しいと思ったものは絶対に手に入れる。……覚悟しておけ。」 ニンマリと歪められる口元を視界がぼやけるほど至近距離で見ながら、僕は改めて自覚させられていた。 ああ、目の前のこの人はオリヴァー・グリーンフィールドなのだと。 僕のような凡人が相手にできる人じゃないんだ。……色んな意味で。 僕の頭はそう結論づけて、考える事を放棄した。 「……とりあえず、あと数時間後にはコンサート本番ですから帰ります。あなたも寝てください。」 頭と腰の痛みに耐えながら、僕はベッド下に散らばった服をかき集める。 泊まっていけばいいだろ、という言葉はもちろん無視をした。 覚悟、したつもりだったんだ。 この人を諦める覚悟を。 なのにこの人の前では僕の覚悟も常識も、何もかも通用しないらしい。 「シーは難しく考えすぎだ。欲しいなら手を伸ばす。それだけだぞ?」 「あなたは考えなさすぎです!」 シャツに袖を通していた背後からするりと伸びてきた手を叩き落として、僕はなんとかその場に立ち上がる。 「と、とにかく、僕は諦めるって決めたんです!」 「オレに惚れてるのにか?」 「っ、か、帰ります!」 全てを終わりにするはずだったのに、終わるどころかオリヴァーを焚き付けてしまった気がする。 駄目だ、流されちゃ駄目。 くすくすと余裕たっぷりな笑いを背後に聞きながら、僕は軋む体をひきずって逃げるようにホテルを後にしていた。

ともだちにシェアしよう!