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第8話 痴話喧嘩

 朝比奈がめざめると、ベッドの隣に桜庭の姿はなかった。  時計を見るとすでに昼前だ。  桜庭は朝比奈を起こさないように朝の5時に出かけたのだろう。  体が鉛のように重い。  自分で思っていた以上に、初めて抱かれて負担があったのだろう。  いつも眠りは浅い朝比奈だが、泥のように眠ってしまった。  コーヒーでもいれようとリビングに行くと、テーブルの上に紙幣が置いてある。  三万円。 『好きなものでも買え』と、メモが添えてある。 「なんだよ……これ」  俺を金で買ったつもりか。  怒りが瞬間沸騰したようにわいた。  あれだけいいムードだったのに、この仕打ちはないだろう。  あいつは、いつも女にこんなことしてたのか。  絶対にそれは間違ってる!  最低だぞ、総一郎!  これだけはわからせてやらないといけない、と朝比奈は怒りにまかせてマンションを飛び出した。  確か午前中は会議だと言っていたから、午後には戻ってくるはずだ。  一刻も早くこれを叩き返してやらないと気が済まないとタクシーに飛び乗り、桜庭の事務所に向かった。 「あら、陸ちゃん、今日は何の用事?」  のんきに声をかけてくる祥子に答えず、ずんずんと事務所に入っていく。  桜庭はすでにデスクにいて、突然入ってきた朝比奈をジロリと睨みつけた。  その目が怒っているので、朝比奈は驚いて足を止める。  なぜ総一郎が怒っているのだ。  怒るのは俺だろう。  朝比奈が声をかける前に、桜庭が立ち上がる。 「陸、ちょっと来い!」  桜庭に腕をつかまれ、朝比奈はビクリ、と体を硬直させる。  桜庭が事務所で『陸』と名前を呼び捨てにすることなど今までなかった。  感情的になっている証拠だ。  打ち合わせ用の隣にある小部屋へ、桜庭は朝比奈を引っ張っていく。 「祥子、しばらく入ってくるな!」  明らかに怒っている怒鳴り声。 「座れ」  命令されて、仕方なく朝比奈は向かい側に座った。  怒鳴るつもりで乗り込んできたのに、なぜ逆に怒りを買っているのか不気味だ。 「お前、今日俺は朝から会議だと言ったよな?」 「聞いたけど。それが何」 「お前のお陰で、俺は客先で笑い物になっただろうが!」 「だから、何」 「見えるところにキスマークをつけるのは、社会人としてやったらいけないことだということぐらいわからないのか!」  顔を真っ赤にして怒る桜庭の襟元から、昨晩朝比奈がつけた派手なキスマークがのぞいている。  朝比奈はあっけにとられ、それから思わず小さく吹き出した。  そんなことでこの男はこれだけうろたえているのか。 「笑い事じゃない!」 「総一郎、それ、気づいてなかったの」 「朝、急いでたんだ。鏡もロクに見てなかった」  怒りがおさまらない、という様子で桜庭は拳を握りしめている。  どうやら昔からのつき合いのある会社を訪問していたらしく、相手は桜庭が婚約破棄の上左遷された事情を知っていた。 『心配していたが、女には不自由していないようだね』と笑われたらしい。 「俺に恥をかかせるつもりだったのか!」 「いいじゃん、別に。女に不自由してるよりはしてないと思われてた方がいいだろ。それに、それが理由で仕事がダメになったってわけでもないんだろ」 「俺の沽券の問題だ」  沽券、という古くさい言葉に笑いそうになりながらも、朝比奈は本来の自分の目的を思い出す。 「沽券、というなら、これはなんだよ」  ポケットからしわくちゃになった三枚の紙幣を取り出し、バンと机の上に叩きつける。 「アンタ、俺を三万円で買ったつもりなのか」  なんのことだ、とでもいうように桜庭は眉をひそめる。 「メモが置いてあっただろう」 「好きなものをこれで買えって?」 「そのままの意味だ。お前を金で買ったわけじゃない」 「総一郎、いつも女にこうやって金渡してたのか?」 「……皆、だまって受け取っていたぞ」 「あのさあ、それ、恐ろしく間違い。受け取る女も、渡すアンタも」  朝比奈は大きくため息をついて、紙幣を桜庭に突き出す。 「俺は受け取れないぜ。こんな不気味な金」 「不気味……?」 「不気味だろう? これを愛情だとは言わせないぞ」 「なぜだ。俺は忙しいから、これで好きなものを買ってくればいいというのがなぜいけない。贈り物をするのと意味は同じだ」 「意味は違う! ぜんっぜん違うぞ!」  ついに頭にきた朝比奈は、立ち上がると紙幣を桜庭のスーツのポケットにねじ込み、腕をつかんだ。 「ついて来い。違いを教えてやる」 「おい、待て、俺は仕事中だ。お前と遊んでいるヒマはない」 「一時間ぐらい昼休憩あるだろ。いいから来い」  桜庭を引きずるように部屋から出ると、立ち聞きしていた祥子が驚いたような顔をしている。 「祥子さん、すみません、一時間だけ総一郎、借りますから」 「あ……はい、どうぞ……」  ずんずん、と桜庭を引っ張って出ていく朝比奈を祥子はあっけにとられて見送っていた。

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