13 / 39
第13話 リベンジ
高崎との不愉快な出来事は、朝比奈の中でしばらく尾を引いていた。
過去のトラウマを生々しく思い出してしまったからだ。
しかし何事もなく数日が過ぎるうちに、だんだんとそれは薄れていった。
桜庭もあれきり連絡してこない。
連絡がないということは、特に問題は起きていないということだろう。
朝比奈は桜庭の方から呼び出されない限り、用もないのに事務所を訪れることはない。
少し寂しい気はしたけれど、少しずつ日常は戻っていく。
夢のように桜庭と一夜を過ごした記憶も、薄れかけていた。
それでも左手に指輪があると思うと、それだけで朝比奈は小さな幸せを感じられた。
指輪を買ってもらったのは正解だな。
おかげで、それ以上のことを求めてしまう気持ちに歯止めがかかっている。
これで、満足しよう、と思える。
いろんなことがあって、最近桜庭のことばかり考えていたから、ちょっと頭を冷やそうとも思ってた、そんなある晩。
めずらしく営業時間外に桜庭から電話がかかってきた。
朝比奈はもうシャワーも浴びて早めに寝ようかと思っていた時間である。
余程の急用か、と嫌な予感がして、朝比奈はあわてて電話に出た。
「陸、今家にいるのか」
「そうだけど、何、こんな時間に。何かあった?」
「ちょっとここんとこ忙しくてな……なかなか時間がとれなかったんだ。今、ちょっと寄ってもいいか?」
「寄るって、俺んちに? 今どこにいるの」
「お前のマンションの近く」
「いいよ、待ってる」
朝比奈はパジャマを脱いで普段着のシャツに着替えると、コーヒーを入れた。
こんな時間なら、接待の帰りか何かだろう。
すぐにインターホンが鳴り、桜庭が現れた。
疲れた顔をしている。
忙しかったのは本当なのだろう。
黙ってコーヒーを出すと、ありがとう、とめずらしく桜庭は礼を言った。
「で、こんな時間にどうしたの」
外は雨。
どこから歩いてきたのか、桜庭の髪が濡れているので、朝比奈はタオルを渡してやる。
「ああ、いやたいした用事じゃないんだが、これを渡そうと思って」
受け取った包みは、ずっしりと重い。
開けてみると、それは朝比奈が前から欲しがっていたニューヨークのデザイナーのデザイン集だった。
「偶然、見つけてな」
「これ……高かっただろ。金、払うよ」
「いや、いい。仕事の参考にしてもらえれば、それも経費のうちだ」
「経費って……俺が使うのに?」
それはわざわざ発注して海外から取り寄せないと手に入らないものだと、朝比奈にはわかっている。
高価なので手が出なかった代物だ。
偶然なんかで見つかるとは思えない。
「ありがとう……嬉しい。わざわざ届けてくれなくてもよかったのに」
「30分あれば来れる。わざわざというほどじゃない」
桜庭は少し居心地悪そうに、コーヒーを飲み干した。
「悪かったな、こんな時間に。もう寝るところだったんだろ」
早々に立ち上がりかける桜庭を引き留めようと、何か話題はないかと思った瞬間に、気になっていたことが口をついて出た。
「あ、あのさ……高崎、あれから何か言ってきた?」
「高崎か……」
嫌なことを思い出した、という顔をして、立ち上がりかけた桜庭は、再び腰を降ろす。
「別の仕事でお前を使いたいと言ってきたが、俺が全部断った。それでいいだろう?」
「構わない。あいつから仕事をもらう気はないよ」
やっぱり何事もないはずはなかったか、と朝比奈は暗い気持ちになる。
「他に何か言ってなかった?」
「なんだか、昔のお前のことを知っている、みたいな話をしてたな。どっかのクラブで会ったことがあるとか」
ピクリ、と朝比奈は硬直する。
一瞬にして、過去の嫌な記憶がフラッシュバックする。
息が苦しくなる。
「俺にもそんなこと言ってたけど、俺は覚えてないんだ。人違いかもしれないし」
朝比奈は動揺を悟られないように、桜庭の表情を伺った。
それ以上の話も聞いたんだろうか。
しかし、桜庭の表情は普段と変わりがなさそうだ。
それに、わざわざ画集を届けに来てくれたんじゃないか。
俺の言うことを信じると言ってくれたのだから、心配することはない、と自分を奮い立たせる。
「どうした、陸、顔色が悪いんじゃないか」
「いや、なんでもないよ」
「もう寝るところだったんだろう。早く休んだ方がいい」
「待って、総一郎」
再び立ち上がりかけた桜庭の腕を思わずつかんで、朝比奈は引き留めてしまう。
何か得体の知れない不安がこみあげて。
今、引き留めないと二人の間が壊れてしまうような悪い予感がして。
「総一郎、リベンジ、しない?」
「リベンジ?」
帰りかけた桜庭の動きが止まる。
どうか断らないで、と必死になる気持ちを隠して、朝比奈は明るい声を出す。
「その……総一郎だって、100点とりたいだろ?」
すがってしまった……
もう一度。
もう一度だけ抱かれたいと願ってしまう。
こんな時間にやってきて、一人にしないでほしい。
嫌な記憶を忘れさせてほしい。
ともだちにシェアしよう!