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第16話 嫌な予感

「帰らなくていいのか」 「明日は特に外回りの予定はないからな」  桜庭は事務所のあるマンションの上に住んでいるので、帰宅するのも出社するのも同じことだ。  当たり前のようにアラームをセットして、桜庭はベッドに横になると朝比奈を腕に抱いた。 「ここで帰ったら減点なんだろ」  桜庭はからかうように、ぽんぽん、と朝比奈の頭をなでる。  まるで、これからもずっとこんなことが続くような、おだやかな錯覚。  これ以上望んではいけない、と思うのに、望んでしまうような態度を取っているのは桜庭の方に思えてしまう。  悔しいから嫌がらせにキスマークをつけてやろう、と桜庭の胸に吸いつくと、桜庭は朝比奈の頭を抱き寄せるように自分の胸に押しつけた。 「キスマークつけて、怒らないのかよ」 「見えるところにつけるな、と言っただけだ。シャツから見えなければ問題ない」  問題ない……か。  でも、たったそれだけのことを嫌がる男は世の中に多いんだよ。  絶対に浮気をしないとキスマークを許してくれる誠実な男は、ゲイの世界では一握りだ。 「いくつつけた?」 「ん……3つ」  朝比奈が正直に申告すると、桜庭がいたずらっぽい笑みを浮かべて逆襲する。  朝比奈の鎖骨のあたりに、ちりばめられていくキスマーク。 「俺は5つだ。数で愛情を計られると困るからな」  5つか。  ヘルメットを5回ぶつけたら『アイシテル』のサインだっけ、などと古い歌の歌詞が浮かんでくる。 「陸……お前、好きな男がいるのか」 「なぜそんなこと聞くの」 「その男のために、練習するんだと言っただろう」 「いるけど……恋人にはなれない」 「なぜだ」 「そういう相手なんだ」  ふう、と頭上から桜庭のため息が聞こえる。  顔を見られたくなくて、朝比奈は桜庭の胸に顔をうずめている。 「つまらない男を好きになるなよ」 「つまらない男なんかじゃない」 「そうか……それならいいが」  なぜ、こんな会話をしているのだろう。  あれほど求め合った後で、なぜ他の男の話なんてしているんだろう。  甘い睦言にならないのは、もう次がないからかな……  これが最後かもしれないなら、総一郎には、ちゃんと合格点をあげよう。 「総一郎?」 「なんだ」 「120点あげる。今日は」 「何点満点なんだ、それは」  桜庭はクツクツと笑う。 「愛がないなんて言って悪かった。俺が間違ってた」 「あっさり認めてくれるんだな」 「総一郎はいい男だよ。俺が女だったら絶対に離さない。総一郎を捨てた女はバカだ」  それは朝比奈の心からの本音だった。  俺が恋人だったら絶対に離さない。  本当はそう言いたかったのだけど。  本当に恋人だったらよかったんだけど。 「もういいさ。あの頃の俺には確かに愛はなかったよ。やっとそれがわかった」  桜庭は最後は少し自嘲ぎみに苦笑した。  翌朝、そっとベッドを抜け出そうとする桜庭の気配で朝比奈は目覚めた。 「もう……朝?」 「ああ、お前は寝てていいぞ」 「いや、起きるよ」  せめてコーヒーぐらい、と朝比奈は重い体を引きずってキッチンに立つ。  桜庭の寝癖のついた髪。  そんな姿すら、目に焼き付けておきたい。  玄関まで見送りに出ると、桜庭は振り返り、手をのばして朝比奈の鎖骨に触れた。 「またしばらく忙しいが、コレが消えるまではおとなしくしててくれ」  ぽん、と肩を叩くと、桜庭は颯爽と出ていってしまった。  キスマークが消えるのに何日かかるのだろう。  朝比奈は鏡にうつった、鮮やかなキスマークを見ながら泣きたくなる。  これが消えたら、終わりってことかな……  それとも、消える前にまた会えるという望みはあるんだろうか。  一縷の望みにもすがりたい気持ち。  望みが叶ってしまえば、失うのがこんなにも怖い。  だけど、桜庭とはこれからも仕事を続けていかなければいけない。  これから二人の関係をどうするつもりなのかは、きっときちんと答えをくれるだろう、と朝比奈は心のどこかで桜庭を信頼していた。    数日後、桜庭から朝比奈に電話が入った。  例の仕事が桜庭の事務所に決まった、という話である。  桜庭は決まったのでほっとしたというような口調だったが、朝比奈はまだ疑っていた。  あの高崎がそんなにあっさり引き下がるだろうか。  事務所へ行って桜庭から詳しい話を聞いてみよう、と思っていたところへ携帯が鳴った。  朝比奈の携帯には登録されていない番号が表示され、嫌な予感にとらわれる。  そしてその予感は的中した。  電話をかけてきたのは高崎である。 「俺は、この番号をアナタには教えてなかったはずですが」 「ヨツバの社員に聞いたらすぐに教えてくれたよ。桜庭くんにはいくら聞いても教えてもらえなかったからね」 「用があるなら事務所を通して下さい。これはプライベートの電話です」 「事務所を通すとキミが困る話だと思ったから、わざわざ直接かけてあげたんだけどね」  電話の向こうで、高崎が悪魔のように舌なめずりをしている姿が目に浮かぶ。 「何の用です」 「懐かしい写真が出てきたから、キミにも見せてあげようかと思ってね」 「写真……?」 「そう。キミの写真だよ。ポラロイドで撮った写真だが、あの時の写真はずいぶん高い値段で売れたんだよ。そのうちの一枚が僕の手元にある」  あの事件の時に、写真を撮られていたということか……  電話を持つ朝比奈の手が震える。 「何の話かわかりませんね」 「見たら思い出すだろう。素敵な写真だよ。キミの顔がはっきり写っている。口にもお尻にも突っ込まれて可愛い泣き顔だ。僕の秘蔵の写真だよ。これをプレゼントするって言ってるんだ」  ハッタリかもしれない。  だけど、そんな写真がもし本当にあるなら、それが世間に出回ってしまうのだけは避けたい。

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