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第31話 分かち合えるもの
「陸、今忙しいか?」
「いや、そうでもないけど、何?」
「悪い、ちょっと降りてきてくれないか」
昼過ぎに桜庭から電話がかかってきて、朝比奈は仕事の手を止めて事務所へ降りた。
職場がマンションの下、というのはこういう時に便利だ。
朝比奈はフリーなので基本家で仕事をしているのだが、一緒に生活を始めて数ヶ月、ちょっとした用事で呼び出されることが増えてきた。
事務所に降りてみると、桜庭は出かける支度をしているところのようだ。
「悪い、三十分ほどしたら、ミツモトという業者が図面を取りにくるんだ。これを渡してやってくれないか」
桜庭は用意してあった大きな図面と、データを差し出す。
「いいけど……祥子さん、また休み?」
「ああ、どうやら三人目ができたらしい」
事務員をしている桜庭の姉が、最近休みが多いというのは聞いていたが、そういうことだったのか、と朝比奈は納得した。
それなら桜庭も困っているだろう、と朝比奈は祥子のデスクに座る。
仕事なら、ここでもできる。
なんなら、祥子の代わりに毎日ここに座っていてもいい、と朝比奈は考えた。
「図面渡したら、鍵かけて帰ってくれたらいいから」
桜庭は事務所の合い鍵を朝比奈に渡す。
「いいよ、夕方まで電話番しててやる」
「お前が?」
「ここで仕事してるよ。道具取ってくるからちょっと待ってて」
朝比奈は急いで仕事の道具を取りに戻り、事務所に戻ってきた。
時間がないのか、桜庭は出かける支度を済ませて、玄関で待っている。
「悪いな、頼む」
「戻りは何時?」
「そうだな……遅くても六時には」
「了解。行ってらっしゃい」
慌てて出て行く桜庭を見送って、朝比奈は機嫌良く祥子のデスクに仕事を広げた。
家で仕事をしているとついついさぼりたくもなるので、事務所の方がはかどるかもしれない。
一人で留守番をするのは初めてだが、案外よく電話がかかってくる。
「はい、桜庭建築事務所」
「あれ? 桜庭さんは留守?」
「夕方まで出てますが、お急ぎですか?」
「陸くん……だね?」
「あれ、立石さんですか?」
お互いに驚いて、挨拶をかわす。
例の事件以来、立石とは連絡を取っていなかったが、桜庭のところへ電話がかかってくるのが朝比奈にはちょっと意外だった。
「いや、本当はキミに直接連絡を取ろうかと思ったんだけどね」
「俺に?」
「仕事のことなんで、桜庭さんを通した方がいいんじゃないかと思ってね。小さい仕事だが、ちょっと頼みたいことがあって」
「そういうことですか。何か俺にできることが?」
「青山にある個人経営の小さなカフェなんだが、最近火災が起きたらしく、全面改装したいらしい。知人から頼まれたんだが、私はちょっと今、手がけている時間がなくてね。そっちはこういう店舗設計は得意なんだろう?」
「まあ……俺はともかく、桜庭は得意分野だと思います」
もともと、カフェなどの店舗の設計を得意としているのは桜庭だ。
朝比奈は桜庭から仕事を受けている間に、得意になってきたようなものだ。
桜庭が不在の間に仕事を受けてしまうのはどうかとも思ったが、少しでも儲けになるなら受けたい、と朝比奈は考える。
著名なデザイナーの立石の知人ということなら、まず心配はないだろう。
自分に代わりがつとまるのかどうか、少し不安ではあるが、やってみたいと思う。
「まあ、桜庭さんが戻ったら話してみてくれないか。OKなら改めて私から依頼するようにする」
「わかりました。多分いいお返事ができると思いますよ」
電話を切ってから、朝比奈は改めて自分の仕事のことを考えてみた。
今まで、仕事を受ける受けないは、ほとんど桜庭が窓口になっていた。
以前は形だけの専属であったのだが、最近はほとんど桜庭を通して仕事を受けている。
それならこうやって事務所にいて、直接電話を受けた方が、少しでも桜庭の負担が減るのではないかと思う部分がある。
祥子が出てこれないなら、ここで代わりに電話番をするようにしたらいいのではないか。
そのことも含めて、桜庭が戻ったら相談してみよう、と朝比奈は張り切って電話番をしていた。
「立石さんから?」
外回りから戻ってきた桜庭に、朝比奈は手短に事の概要を説明した。
「うん、青山の個人経営の小さいカフェだって。知り合いらしいけど、立石さんは今忙しくて受けられないらしい」
「そうだな……納期は聞いてるか?」
「いや、詳しいことはまだ」
桜庭はちょっと考えるような様子になり、ソファーに腰を降ろす。
「来月になってからならなんとかなるだろうが、今月はなあ……」
「忙しいの?」
「ちょっとな。打ち合わせに行く暇もない」
「あのさあ……俺が行こうか?」
「どうしても引き受けたい仕事なのか?」
桜庭はちょっと困ったような顔になる。
忙しいんだろうな、と思いながらも朝比奈は説得してみる。
「俺がデザイン出すのに最低でも2、3週間かかるから、実際に総一郎が図面を引くのはもっと先になるだろ? そこまで俺にまかせてくれない?」
「まあ……立石さんからの依頼は、断るわけにはいかないだろうな」
桜庭も、立石に世話になったことには、恩は感じている。
あの一件は、立石の力がなかったら解決できなかっただろうから。
自分だけの力で朝比奈を守れなかったことは、今でも少し悔やまれるのだが。
「じゃあ、俺、近い内に直接話聞いてくるから」
「わかった。報告だけはしてくれ」
「もちろん。なるべく儲かるように話してみるよ」
朝比奈はまかせて、というように指でOKサインを出して微笑んだ。
桜庭のOKさえあれば、あとは自分が頑張るだけだ。
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