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第32話 提案

「物件名教えてくれ」 「えーと、まだ聞いてないから、青山のカフェとかなんとか適当に決めて」  桜庭はパソコンに向かって、新しい物件名を打ち込むと、片手でこっちに来いというように朝比奈を呼び寄せる。 「ショートカットを作っておくから、関連の書類はこのフォルダに。俺がいない間でも」 「わかった……あ、それからさあ」  朝比奈は今がチャンスだろうと、もうひとつの提案を話してみることにする。 「もし、祥子さんがこれから出てこれなくなるんだったら、俺、ここで仕事してもいいけど? 電話番ぐらいなら代わりにできるし」 「電話番か……しかし結構電話多いぞ? お前の仕事に差し支えないか?」 「平気平気。あ、そうだ、これ、今日かかってきた電話」  朝比奈は思い出したように、何件かのメモを桜庭に差し出した。  桜庭はそれらに目を通し、一枚のメモに目をとめる。 「松江企画って、聞いたことないな……」 「ああ、それ、新規顧客? ヨツバの紹介みたいだったよ。俺も聞いたことないなと思って調べてみたんだけど、これ、過去に松江企画が扱った物件。大丈夫なんじゃない?」  朝比奈はプリントしておいた資料を桜庭に渡す。  桜庭はその資料にさっと目を通すと、またなにやらパソコンに打ち込んでいく。  少しは役に立ったかな、と朝比奈は桜庭の様子を観察していた。  でしゃばりすぎたかな、と思う面もあったが、桜庭が文句を言わずに黙っているということは、迷惑というわけでもないんだろう。 「総一郎、今から仕事?」 「ああ、今日は一日出てたから、やることが山積みなんだ」 「じゃあ、俺、帰ってなんか食事の支度しておくから。お腹減ったら帰ってきて」 「悪いな」  桜庭はパソコンから一瞬目を上げ、申し訳なさそうな顔になった。 「いいよ、頑張って」  仕事の邪魔をしないように、朝比奈は事務所から退散する。  少しでも力になれるなら、それでいい。  一緒に暮らすようになってから、桜庭は家賃も生活費も一切朝比奈からは受け取らなかった。  何か手伝えることがないだろうか、と朝比奈は思っていたところだったのだ。  夜遅くに帰宅した桜庭に、朝比奈は簡単な食事を出してやる。  おにぎりに野菜炒め、大根の味噌汁。  凝った食事よりも、簡単で消化のよいものを桜庭が好むのも、最近分かってきた。  二人分のコーヒーをいれて、リビングのソファーに座っていると、桜庭はテレビのニュースを消して朝比奈の隣に座った。 「すまないな、陸に家事押し付けて」 「押し付けてるわけじゃないだろ。俺が好きでやってるんだから」 「お前にも仕事があると分かってるんだがな……」  疲れた様子の桜庭の首に手を回して、朝比奈はキスをねだる。  優しく重なる唇。  この瞬間のためだけにでも、なんでもしたいと朝比奈は思ってしまう。 「総一郎……さっきの話なんだけど、俺、ほんとに電話番ぐらいだったら手伝いたいと思ってるんだけど」  桜庭は少し考えるように動きを止め、それから朝比奈の顔をまっすぐに見た。 「俺は、お前を祥子の代わりに使うつもりはない」 「そう……なんだ」  朝比奈はショックで動揺した。  俺では役に立たないということなんだろうか。 「祥子の時給は八百円だ。お前がそんな仕事をする必要はない。事務員を雇えばそれで済む」 「でも……わざわざ雇わなくても」  わがままを言うつもりはないが、昼間事務員と二人きりで桜庭が仕事をするのは、なんとなく嫌だ。  祥子だから安心していた面がある。  オバサン事務員ならいいんだけど…… 「なあ、陸。お前、貯金してるか?」  突然何の話か、と朝比奈は怪訝な表情になる。 「してるよ。総一郎、家賃もとってくれないし、このままだと俺の年収丸々全部貯金になりそうなんだけど」  そうか、と桜庭は苦笑するような笑みを浮かべた。   「なら、お前、出資してみるか?」 「出資? 総一郎の会社に?」 「前々から考えていたんだが、株式にしようかと思ってな。つまり……共同出資だ」 「俺が?」 「一緒に仕事をするなら、共同経営だ。それ以下の条件では、お前は使えない」 「俺、そんな……」  突然飛躍した提案に、今度は朝比奈がうろたえる。  そこまでのことは考えたこともなかった。  ただ、電話番の代わりができれば、力になれるかと思っただけなのに。 「もしかして、今経営困ってたりする?」  おずおずと率直な質問をぶつけてくる朝比奈に、桜庭は声を上げて笑った。  もっともな疑問だ。 「今はなんとか黒字だ。だが、俺一人で手を広げるのには限界がある」 「だけど、祥子さんも出資してるんじゃなかったの?」 「祥子には、話は通してある。賛成してたよ。一人より二人の方がいいってな」  断る理由は、ない。  貯金なら数百万は自由になるし、それが桜庭の望みなら喜んでそうしたいと思う。  だけど、いいんだろうか。  仕事にプライベートを持ち込んでいるようで、朝比奈にはそこがひっかかる。  今まで通り、桜庭から外注の形で仕事を受けているだけじゃ、ダメなんだろうか。 「なあ、陸。お前は本当は俺の事務所なんか通さずに、いくらでも自分で仕事をとってくる力がある。それは俺も分かっている。それでも、今まで俺の会社を通して儲けを出してくれていることも分かっている」 「そんな……俺、今まで仕事は総一郎におんぶに抱っこだったのに」 「お互い個人企業だ。ここいらで力を合わせて、株式会社にするのも悪くないと思ってな。お前が賛成してくれるなら、ということだが」 「少し、考えさせてくれる?」 「もちろんだ。ゆっくり考えればいい。経営が破綻すれば一緒に倒れるわけだからな。でも、儲かれば折半だ。そこは、今後のためにも、きちんとしておいた方がいいと思ってな」  桜庭は話を切り上げるように、朝比奈を抱き寄せてキスをする。 「難しく考えなくていい。陸のできる範囲で」 「……いくら? 俺が出資する額」 「最大300万。会社が倒れたとしても、お前の責任の範囲はそれ以内だ」 「分かった」  朝比奈は小さく微笑んだ。  ほとんど心は決まっている。  だけど、簡単に決めてはいけないような気がするのはなぜだろう。  何かがひっかかる。  桜庭は仕事には厳しい男だ。  共同経営になることで、何か仕事面で迷惑をかけるようなことになれば、恋人でいられなくなるような状況も考えられる。  そう思うと、勇気がいる。  このまま、ただ恋人でいるだけではダメなんだろうか。  すっきりと答は出せないまま、朝比奈は優しい恋人のキスに溺れていった。  

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