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第37話 小さな変化

 目覚めると桜庭は隣にいなかった。  窓のカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。 「嘘つき……今日はずっとここにいるって言ったくせに」  朝比奈は重い身体を無理矢理起こして、時計を見た。  もう昼前だ。  どんなに明け方まで抱き合っていても、やっぱり桜庭は絶対に仕事をさぼることはない。  一人で事務所をやっている責任感は、想像以上に重いのだろうと朝比奈は今更のように思う。  コーヒーで目を覚まし、着替えた朝比奈は印鑑と通帳をバッグに入れ、銀行へと向かった。  決めたことはすぐに行動する。  それは桜庭の仕事の基本でもあるから。  用事をさっさと済ませ、事務所に顔を出すと、桜庭は難しい顔をして図面を見ながら電卓を叩いているところだった。  明かに寝不足で、不機嫌そうに眉間にシワを寄せている。  朝比奈はカバンから銀行の振り込み控えを出し、黙って桜庭のデスクの上に置いた。  ちらっと目をやった桜庭が、仕事の手を止め、振り込み控えを確認する。 「もう行ってきたのか」 「善は急げって言うだろ」 「善かどうかは保証できないぞ」  桜庭は小さく苦笑すると、控えをデスクの引き出しにしまった。 「何か手伝えることある?」 「いや、土曜日はほとんど電話もないし、お前はゆっくり休んでたらいい」  桜庭は再び電卓と図面をにらんで、何か考え事をしている。 「コーヒーでもいれようか?」 「いや、朝からコーヒーは飲み過ぎだ」  邪魔をしてはいけないので、朝比奈は取りあえず側を離れ、ソファーに腰を降ろした。  時刻は昼前だ。  桜庭もどうせ朝から何も食べていないだろうから、昼食を一緒にとろうかと思案する。  桜庭はしばらくまた電卓を叩きながらため息をついたりしていたが、その内かんしゃくを起こしたようにペンを机の上に投げた。  疲れた様子でこめかみを押さえ、天井を仰いでいる。 「少し根つめすぎなんじゃない? 休憩したら? お昼でも食べようよ」  桜庭はジロリと朝比奈をにらんでから、おもむろに立ち上がり、なぜか事務所の入り口のドアの鍵をかけに行った。  なんだろう、と不思議に思っている朝比奈の側へやってくると、無言で隣にドサリと座る。 「なんか食べに行く?」 「いや……」  桜庭はふう、と大きなため息をひとつついて、コトン、と朝比奈の肩に頭をのせて寄りかかった。  桜庭が事務所の中で、そんな行動に出るのは初めてのことで、朝比奈は一瞬目を見開いて固まる。 「寝不足だろ?」 「いや、ちょっとな……ここんとこ仕事が煮詰まってて」  桜庭は朝比奈を抱き寄せるように、自分のひざの上に横座りにさせると、今度は朝比奈の胸に額を擦りつけた。 「頭が暴走してるんだ」  朝比奈はやっぱり甘えているとしか見えない桜庭の行動に驚きながら、桜庭の頭を両腕で抱きかかえる。 「ひょっとして総一郎……これ、甘えてる?」 「悪いか」  桜庭はちらりと上目で朝比奈の顔を見上げ、ふてくされたような顔になった。  恐らく人に甘えたことなど生まれてこのかた1度もなさそうな桜庭の、バツの悪そうな様子に、朝比奈は思わず心の中で苦笑する。  いや、でもここで笑ってはいけない、と辛抱して、桜庭の髪をなでてやる。 「陸……」  桜庭が片手を伸ばして、朝比奈の頭を引き寄せる。 「ちょっとリセットしてくれ」 「リセットって」 「頭からいったん全部追い出してくれ」  桜庭が朝比奈を見上げるように顔を近づけてきたので、朝比奈はようやく桜庭のわかりにくいおねだりに気付き、唇を重ねる。  唇を重ねても、桜庭の舌がすべりこんでこないので、朝比奈は自分から舌をそっと差し込んだ。  待っていたように、桜庭はキスを受けとめ、朝比奈の背に手を回す。  鍵をかけた事務所で交わす、初めてのキス。  今までの桜庭には、絶対に考えられなかったことなのに。  何が変わったんだろう、と朝比奈は不思議に思う。  深く絡まる、セックスのような濃厚なキスに、桜庭は小さく息を乱した。  とろり、と朝比奈の舌から、唾液が伝ってきて、ごくり、と喉を鳴らす。  朝比奈が唇を離そうとすると、桜庭はもっと、とねだるように頭を抱え込んだ。  寝不足のせいなのか、目が少し潤んで、顔も心なしか赤い。  朝比奈はしっかりと桜庭を抱きしめ直し、さらに深いキスを与え続ける。  時折、桜庭の背がぴく、っと震えるのが愛しい。  頭を上げ、一方的にキスをされながら、指先で朝比奈の乳首を探しているのが、今日は子供みたいだ。  もっと早くこうしてあげていたらよかった。  いくら桜庭でも、疲れていれば恋人に甘えたい時もあるんだと初めて知った。  舌を思いきり深く差し込み、濡れた唇を擦り付けると、抱きしめている桜庭の手にぎゅっと力が入る。  ギブアップ、というように、ぽんぽん、と背中を叩かれて朝比奈はやっと唇を離した。  溢れ出た露が、口元から一筋つたう。  桜庭は上気した顔で、ぼんやり視線を彷徨わせた。 「リセットできた?」 「できたが……眠い」  桜庭がずるずるとソファーに横になりそうなので、朝比奈はあわててひざから降りると、隣へ座り直した。  朝比奈の膝の上に、桜庭の頭がずり落ちてくる。  事務所であり得ない出来事その2。  桜庭に膝枕。 「悪い……30分立ったら起こしてくれないか……昼飯はそれから……」 「いいよ、お休み」    【愛ならある!2 ~分かち合えるもの~ End】  

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