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第38話 思い出
「総ちゃん、これ、陸ちゃんに」
夕方仕事を終える頃に、祥子がやってきてケーキの箱を差し出す。
「俺は甘いモン食わないって言ってるだろ」
「だから、陸ちゃんにって言ってるでしょ!」
渋々の顔をして、桜庭は箱を受け取る。
「総がそっちの人だなんてちょっとびっくりしたけど、相手があの陸ちゃんだなんてねえ……そこだけはよくやった!と褒めてあげるわよ、姉として」
祥子は仏頂面の桜庭の肩を、バンバン、と叩く。
「毎日帰ったら陸ちゃんとラブラブなのよねえ……あああっ想像しただけで、刺激的っ! 総、逃げられないように、頑張んなさいよっ。あんないいコ、アンタにはもったいないぐらいなんだから!」
「うるさい、さっさと帰れ」
まったく……と桜庭は心の中でため息をつく。
一言返すと十倍返ってくるので、疲れる。
祥子は朝比奈のことを気に入っているので、朝比奈が引っ越してきてからというもの、しょっちゅう差し入れを届けさせられている。
朝比奈が喜んでいるので、まあいいのだが、今まで見向きもしなかった桜庭の自宅にまで、祥子が時々押しかけてくるので、それには辟易している。
祥子のようなタイプを腐女子、というらしい、ということを桜庭は最近知った。
まあ、朝比奈のことを考えたら、姉がマイノリティーに寛容である、ということは助かる。
まだ仕事は残ってるが、ケーキを届けてやるか、と桜庭は自宅に戻った。
と言っても、事務所のあるマンションを上に上がるだけだが。
玄関を入ると、ツン、とシンナーのような有機系の匂いがする。
何事か、と思って朝比奈の部屋をのぞくと、部屋の中が大変なことになっている。
部屋中に工事中みたいなブルーシートが敷かれていて、その真ん中に、朝比奈が幼稚園児のようなスモックを着て座っていた。
無心でキャンバスに向かっている。
「何やってんだ……」
「ああ、お帰り。絵、描いてる」
そんなことは見ればわかる、と桜庭は顔をしかめる。
朝比奈が描いているのは、油絵だ。
仕事ではいつも水彩なので、めずらしい。
「これも仕事か?」
「まさか。ちょっと時間あるから、久しぶりに描いてみた。どう?」
どう、と言われても、俺には絵を見る才能など皆無だぞ……と桜庭はその絵を眺める。
そこに描かれていたのは、すでに引っ越して無くなってしまった、朝比奈の前の部屋だ。
落ち着いた暖色で描かれた、寝室。
壁には、アジアっぽいタペストリー。
ベッドの上には、シーツに頭までくるまっている朝比奈がいる、という想定らしく、壁際の方がこんもりと盛りあがっている。
床には脱ぎ散らかした衣類。
サイドテーブルの上に眼鏡……
「どういう状況なんだ、これは」
うすうす気付きながらも、桜庭は聞いてみる。
「思い出の瞬間。忘れたくないからね」
「思い出?」
「総一郎が、初めて俺の部屋に来た時」
やっぱりな……と桜庭は改めて細部を見る。
確かにテーブルの上の眼鏡は桜庭のものとよく似ている。
しかし、絵の中の朝比奈はひとりぼっちだ。
「俺は陸を置いて帰らなかったぞ。一緒に寝たじゃないか」
「うん、総一郎は今から描く」
俺も描かれるのか、と桜庭はため息をつく。
キレイな絵の中に、無骨な俺など描いても……と思うのだ。
「裸はやめてくれよ」
「大丈夫、上半身はシャツ着てるとこ」
「ヤる前か?」
「ヤった後。総一郎、一度帰りかけただろ?」
「俺が30点くらった時か……」
なぜよりによってそんなところを描くのだ、と桜庭は情けない顔をする。
朝比奈はキャンバスから目を離さず、思い出すように口を開く。
「この時は俺、まだ引き返せると思ってた。総一郎が帰ったら、忘れようと思ってた」
「遊びだったのか?」
「そうじゃないけど……1回ぐらいはずみで寝ることはよくあることだし」
まあ、確かにあれははずみだった、と桜庭も思う。
まさか、自分が男に恋をして、強引に同棲までしてしまうなど、夢にも想像していなかった。
そもそも、過去に桜庭はそれほど強い恋愛感情を抱いたことがなかった。
過去につき合った女は、みんな同じように思う。
だけど朝比奈は違う。
朝比奈は男だけど、清楚だし、色気もあるし、自分とは違う生き物のように思える時がある。
何より、女よりはよっぽど分かりやすい。
心も身体も。
ただでさえ鈍感だと言われている桜庭としては、対等にものを言える朝比奈は付き合いやすい。
桜庭は最近では、ひょっとして自分は隠れゲイだったのか、と思い始めている。
「この後、俺、もう引き返せないって思った。だから、これがスタートの瞬間」
「30点スタートか」
「こだわるなあ、そこに」
朝比奈が無邪気に笑う。
「祥子から差し入れ、冷蔵庫に入れとくぞ」
「あ、サンキュー。祥子さんにはなんかお礼しないとなあ」
「ほっとけ。図に乗る」
邪魔をしては、と思い、桜庭は立ち去る。
まあ、朝比奈は前のマンションの部屋を気に入ってたようなので、記念に絵に残そうという気持ちは分からないでもない。
芸術家肌の人間にとっては、切り取る瞬間に、別のものが見えているんだろうな、と桜庭は思う。
過去にはこだわらない桜庭だが、朝比奈はああやって幾つもの瞬間を、これからも蓄積していくんだろう。
ヘンな瞬間を蓄積されるのは、本意ではないが……
朝比奈が絵に熱中しているようなので、桜庭は事務所に戻って仕事の続きをすることにした。
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