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第4話 秘密兵器

 コポコポと音を立てるエスプレッソマシンの前で、抽出されるコーヒーを見つめながら、結はもう何度目か分からないため息をついた。  気づけばもう、閉店間近。  慌ただしかった昼間とは打って変わって、店内はとても静かで、客足もまばらだ。    今日一日、無機質なロボットになったつもりでコーヒーを淹れ、淡々と注文をこなすことだけに力を尽くした。  もちろん、普段は人間らしく笑顔を絶やさずに働いているのだが。  今回ばかりはそうでもしないと、ぐるぐると答えの出ない自問自答の迷宮に入り込んで、作業する手が止まりそうになったからだった。  直人の家で過ごした週末。  朝、目覚めたらいつの間にか体は綺麗に清められていて、服も新しいものに着替えさせられていた。  そんな状況が初めてだというわけではないのだが、大きな決意を胸に挑んだ結の落胆は大きいものだった。   (やっぱ、俺がすぐ我慢できなくなるから、直人さんに気を遣わせてるのかなぁ)    思いを遂げられないまま平和に過ぎて行った時間を思い返して、深く息を吸い込む。  直人と一緒にいる時間はとても幸せだ。  幸せでたまらないのに、ふとした瞬間、本当の意味で自分は直人の恋人だと言えるのだろうかと、不安になることがある。  付き合い始めたばかりのころは全てが目新しく、余計なことを考える隙もなかったのに、時を重ねるにつれて、まだ抱かれていないという現実が心を揺さぶり始めたのだ。  体を繋げることが全てでないことは解かっている。  それでも、結が年下で同じ男でもなく、もっと恋愛に慣れていたら違ったのだろうかという考えが頭から離れないでいた。  直人はいつも結に合わせてくれて、無理を強いられたことなど一度もない。  大切にしてくれているのは知っている。それなのに――。 (いや、待て。その前に、そもそも俺に魅力がないからとか? このままじゃ、俺たち……)    浮かんできた不吉な考えに、慌ててイヤイヤと頭を振った。  そんなことは無いはずだ。あるはずがない。  なぜなら直人の唇や手によって溶かされるたびに、自分に向けられる彼の眼差しを、結はちゃんと知っているからだ。  それはどこか獰猛(どうもう)な光を孕んでいて、直人の切れ長な瞳を美しく彩る。  まるで、結を求めるように。  思い出すだけで、頬は熱くなり胸が甘く痛む。  だとしたらなおさら、自分のせいで直人に我慢を強いてしまっているのではと思うと、居ても立っても居られない気持ちになってくる。 (本当に、どうしたらいいんだ……)    頭の中で様々な考えがぐるぐると回り出して、悩みの渦の中に落ち入ろうとしたその時、後ろから自分を呼ぶ大きな声に、結はハッと我に返った。 「あっ、はい」  弾かれたように振り返って目を瞬かせている結を、店長の綾子の丸い目が心配そうにじっと見つめてくる。 「やっと聞こえたみたいね。さっきからずっと呼んでたのよ、大丈夫?」 「えっ、あっ、すみません。ちょっと考え事をしてて……」  慌てて謝る結に何か言いたげな様子だったが、ふうっと息を吐いた綾子が、持っていたモップをずいっと目の前に差し出した。   「とりあえずもう閉めるから、はい。これ、お願いね」 「は、はいっ。あれ、もうこんな時間」  モップを受け取って店内を見渡すと、さっきまでまばらに残っていた客は一人もおらず、時計は既に閉店時間を過ぎていた。   「そうよ。私はカウンター裏をするから、フロアは頼んだわよ」 「はいっ」 (ああ、もう、俺のバカっ)    結局考えに浸って仕事に集中できてなかった自分を責めながら、急いで身をひるがえしフロアへ向かう。  店の外はもうすっかり日が落ち、暗くなっていた。  鏡のようになったガラス窓には店内の照明が反射し、外を走る車のライトと重なってキラリと不思議な景色を作り出している。  その中のひとつに見慣れた自分の顔を見つけて、結は思わずぎょっとした。  (顔、やばすぎだな……)    思いつめた自分の表情に、結はまたため息をつきそうになるのをなんとか押しとどめて、モップを持つ手に力を込めた。  店内には二人が作業する音と、緩やかな曲調のBGMだけが流れている。  単純作業は頭の中を空っぽにできて、今の結にはぴったりだ。    一心不乱に床を磨いていると、「そうだ、結くん」と綾子がカウンターからひょっこりと顔を覗かせた。  にんまりと口元を綻ばせた彼女に、なんとなく身構えてしまう。   「ちょうどよかったわ。渡したいものがあるから、終わったら控室に集合ね」 「しゅご……? え、あ、はい!」  それだけ言って、颯爽とカウンターの向こう側に姿を消した綾子の残像に向かって、少し遅れて返事をした。   (何の招集? ちょうどいいって、何が?)    結は少し考えて、首を傾げながら作業に戻った。  * 「それで結くん、君を悩ませてる理由は?」  閉店作業を終えて休憩室に行くと、あとから入って来た綾子に、顔を合わせるなり詰め寄られた。 「え、ちょっと綾子さん。近い、近いです」  放っておくと食いついてきそうな勢いの綾子をひとまず制して、じりじりと距離を取りながら、置いてある椅子へと腰を下ろした。 「いいじゃない別に、取って食おうってわけじゃないんだから。それで、落ち込んでる理由は?」  結の向かいに座った綾子が、質問を続けてくる。  こういう時の彼女は結が答えるまで引こうとはしない。  当人の言葉を借りれば『大事な弟分が悩んでいるのに、心配しない姉がどこにいるの?』という事らしいが、心強い半面、正直に言えば全て見透かされていそうで少し怖い気もする。  愚門だと思いながらも、「どうして悩んでるって分かったんですか?」と控えめに聞いてみると、呆れたようにじっとりとした視線を向けられてしまった。 「どうしてって、結くん、キミねぇ。この私が気付かないとでも思ったの? 色白の顔が、白を通り越して青いくらいだし、魂の抜けた顔で淡々と仕事してるんだもの。そうかと思ったら、急に動きを止めて一点を見つめだすし。何もないと思う方が不自然ってものでしょう」  ビシッと指先を向けられて、ぐうの音も出ない結は「すみません」と言って溜め息をつくしかなかった。 「話してみて。話せばきっと楽になるわ。それに悩みを解消する何かいい方法が見つかるかもしれないじゃない?」  興味本位というわけでないのは、今までの綾子との付き合いで分かっている。  しかし、内容が内容なだけに、話しづらい。  目を泳がせながらちらりと綾子を見ると、さあ話して、と言わんばかりに目で合図をされてしまった。  ああもう、背に腹は代えられない。結は覚悟を決めて「ちょっと恥ずかしいんですけど……」と前置きして、胸の内を陽子に打ち明けた。 「なるほどね。付き合って半年経つのに、恋人同士の触れ合いはあるけど、まだ最後まで致せていないと。それが自分に魅力がないからで、更に快感に弱い自分のせいで、彼氏に我慢させているんじゃないかって思ってるのね?」 「はい。まぁ、そういうことです」 「なるほどねぇ……」    綾子にさらりと要約されてしまったが、改めて聞くと自身のこととはいえ、恥ずかしい上に心にずしりと重いものを感じる。  膝の上で合わせた手の指先を、もじもじと絡めていると、納得したように綾子が大きな相槌を打った。 「可愛いわね」 「へ? 誰がですか?」 「君がよ、結くん」 「は?」  何やら考えていた様子の綾子が口を開いたと思うと、発せられた言葉の意外さに結は目を丸くした。揶揄われているのかとも一瞬思ったが、目の前の綾子の表情はいたって真剣だった。  視線が合って、いつもの明るい笑顔が向けられる。 「結くんは本当に良い子ね。こんなに可愛いんだもん、彼の気持ちも分かる気がするわ」 「それはどういう……、って可愛いってなんですか?」  複雑な気持ちになりながらも、褒められることに慣れていない結の顔はすぐに熱くなってしまう。   「ほら、そういうところよ。すぐピンクに染まっちゃうほっぺとか、伏し目がちになると分かる長い睫毛とか。考えてることも健気で守りたくなっちゃうもの」 「俺、男ですよ? 可愛いとか守りたいとか思われるのって問題じゃないですか?」  自分も意識したことのない自分の解説を聞いて、新たな悩みの種が芽を出しそうになったが、綾子によってすぐに摘み取られた。 「そんなことないわよ。それが結くんの魅力だし、受け取る側にとっては愛しさしかないと思うわ。きっと彼もそう感じているんじゃないかしら」 「う……、もしそうなら嬉しいですけど、悩みの解決にはなりません」  更に頬に熱が昇っていくのを感じながらも、結ははっきりと言い切った。その様子に、「意外とせっかちなところもあるのね」と綾子が笑みを漏らした。 「そうねぇ、私からアドバイスをあげるとすれば……。いっそのこと強引にでも奪われてしまえばいいんじゃないかな」 「強引にって、俺が直人さんを押し倒すとかですか?」  前のめり気味でそう言うと、綾子が顔の前でぶんぶんと手を振ってきた。   「まさか、そんなこと結くんに出来ないのは分かってるわ。そうじゃなくて、彼をその気にさせればいいのよ。1回しちゃえば、結くんの悩みは解消されるわけだし、彼にも変化があるはず。ということで、はい、これ」  荒治療とも言える綾子のアドバイスに目を白黒させながらも、差し出された紙袋を受け取った。 「これは?」    まるでどこかの高級ブランドを彷彿とさせるような、光沢のあるつるりとした手触りの袋は、中央にタキシードとドレスを着て並んだ二匹の猫の絵がプリントしてある。 「私から秘密兵器のプレゼント。健気に頑張ってる可愛い弟分のために、前々から渡そうと思っていたの。タイミング、ちょうどよかったわね」 「え、俺に? なんですか?」  ちょうどよかった、の意味が分かったところで新たな疑問が湧く。   「そう、結くんに。美希がね、趣味で作ってるものなんだけど……。すごく評判もいいのよ。ここぞっていう時に身に着ければ、きっとうまくいくわ。だから、その時まで中身は開けちゃだめよ」  紙袋を覗くと、中には丁寧に包装されてシルクのように滑らかなリボンが掛けられた小箱が入っている。身に着けるということは、アクセサリーか何かだろうか。  気になるが、開けたら駄目だと言われた手前、中身を知る手立てはない。   「なんだか玉手箱みたいですね……。まさか、怪しい石とか?」 「まさか。姉さんを信じなさい。結くんにぴったりのはずだから」  自信ありげな顔で微笑む綾子にお礼を言って、腑に落ちないまま紙袋を眺めていると「本当にここぞという時に開けるのよ」と念を押されてしまった。  そう言われるとなおさら気になるじゃないかと言いたかったが、結の反応を待たずにさっさと帰り支度を始めてしまった綾子に促されるまま、何も言わずに店を出た。  もらった紙袋も、しっかりと手にさげている。  別れ際、綾子が店の向かいにある駐車場へと歩き出した足を止めて「もうひとつ、お姉さんからアドバイス」と、結を振り返った。 「彼に、思ってることを打ち明けてみてもいいと思うわよ」  真っすぐに結を見据える綾子の表情には、一点の曇りもない。 「思ってることを……、ですか?」 「そう。結くんが悩んでいるのは、彼との関係が大事だからこそなんじゃないの?」 「それは、そうですけど……」 「結くんが彼に素直な気持ちを伝えたとして、それを拒否するような彼ではないはずでしょう?」 「当たり前です! 直人さんはそんな人じゃありません」  ついムキになってしまった結に、綾子は優しくうなずいてくれる。   「うん。だったら大丈夫よ。話せばきっと、今まで以上に強い絆で結ばれるはずよ。私があげた秘密兵器もあることだしね」  結が手にさげている紙袋を指さして、にっこりと口角を上げた。   「あとは結くんから先に、ご奉仕しちゃうとかね」 「ご、ご奉仕ですか?」 「そう、ご奉仕。え、分からない? そうね例えば――」 「わーっ、ストップ綾子さん! 分かります、分かりますから!」  想像するだけで恥ずかしいことを指折りながら言いかけた綾子を、結は顔を真っ赤に染めて全力で止めた。人通りが少ないとはいえ、こんな外で何を言おうとしているのかと思うと気が気じゃない。 「もう、結くん真っ赤。やっぱり可愛いわねぇ。これは彼氏も大切にするしかないわね」 「綾子さん……、俺で遊んでます?」  くすっと笑みをこぼした綾子に、じっとりとした目線を向けると、まさか、とごく真面目に返されてしまった。本気で教えてくれようとしていたらしいことに、結は少したじろいだ。 「可愛い弟分だもの、構いたくなるのよ許して。それに結くんならきっと大丈夫よ。私が応援してるからねっ」  そう言って颯爽と車に乗り込み、窓から手を振って走り去って行った。  テールランプの光が目に焼き付いて、結はしばらくその場で呆然となる。 (ご奉仕って、綾子さん……)  綾子の言葉が頭の中で、何度も再生される。そう言われてみれば、いつも直人に翻弄されるばかりの結には、案外いい方法かもしれないとどこかで思ってしまっている自分が怖い。 (試してみる価値はあるかも?)  ぐるぐると考えを巡らせながら家の方へと踵を返すと、ポケットの中のスマートフォンが震えた。  メッセージの送り主は直人で、画面を開くと『今週末、結の家に行っていい?』の文字。  いつもなら何とも思わない内容に、結の心臓は大きく脈打った。 「……っ、すごいタイミング」  つい心の声を漏らしてしまって、周りに誰もいないことを確認する。  きっと挙動不審に見えるだろう自分から逃げるように、店の上階にある自分の部屋へと急いだ。   (自分から、一歩を踏み出すんだ!)  わずかに震える手で直人に了承の返信をして、結は心を決めた。

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