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第5話 キャンドルの夜(前編)
甘い香りを漂わせるオーブンの前で、結はそわそわともうすぐ焼き上がるブラウニーの様子を眺めていた。
約束した週末がやってきた。今日の夕食は中華料理。美味しいという噂の店が会社の近くにできたらしく、直人がそこで調達してくれることになっている。
とはいえ、じっと待ってはいられなくて、カフェのアルバイトで鍛えられたお菓子作りの腕前を、無駄に発揮することにしたのだ。一緒に添える予定のバニラアイスの準備もしてある。
(直人さん、もうすぐ帰ってくるかな)
ふと時計を見ると、ちょうど19時をまわったところだった。さっき直人から仕事が終わったというメッセージが来ていたので、そろそろ家に着いてもいい頃だろう。
そう思って取り分け用の皿などを準備していると、来客を知らせる玄関のチャイムが鳴り響いた。モニターには直人の顔が映し出されている。急ぎ足でキッチンからLDKの扉を抜けて玄関へ向かう。
「おかえりなさい」
玄関の扉を開けて思わず迎えの言葉を口にすると、少し目を見開いた直人が柔らかい笑みをこぼした。
「ただいま」
聞き慣れているはずの優しい声に、心が弾むのを感じながら結も笑顔を返す。
「重かったでしょ?」
直人の両手にさげられている『鳳凰楼』と書かれた文字の入った袋を受け取って、結はキッチンへと運んだ。
春巻き、小籠包に炒飯、油淋鶏と麻婆豆腐、どれも美味しそうだ。テーブルの上で準備しておいた皿に盛りつけていると、いつものようにソファの横に荷物を下ろした直人が、真っすぐに結の方に向かって来た。
と、思ったら、後ろからすっぽりと抱き込まれてしまった。
「……っと、直人さん?」
あやうく春巻きを滑らせそうになって、慌てて箸を置く。
すりすりと首筋に鼻を押し当てられて、くすぐったいような恥ずかしいような、落ち着かない気持ちになる。
「結が足りないから、ちょっとだけ」
「ふふ、くすぐったいよ」
回された腕にぐっと力が込められて、首元に恋人が顔をうずめた。
「ん、結の香り……甘いな」
こうやって直人が求めてくるときは、本当に疲れている時なんだということを結は知っている。
普段は自分が甘やかされていることは自覚しているので、逆にこうして甘えられると、その新鮮な感覚とともに、たまらなく直人のことが愛しく思えてくる。
だからそのお返しにというわけではないが、直人が満足いくまで吸われることにしている。結自身、時々ご褒美みたいにやってくるこの瞬間が、実はとても好きだったりするのだ。
直人の腕を優しく抱き返してみる。
「一週間お疲れさま、直人さん」
「結もね。んー、癒された」
そうして結を堪能した直人が離れていく間際、隙を狙ったかのように耳朶に唇が重ねられた。
ちゅっ、という音が無意識に鼓膜を震わせて、そこから火が付いたように全身に熱が巡っていく。
「わあっ、直人さん!」
「ごめん、つい。結から美味しそうな匂いがしたから」
前言撤回。直人の腕の中は好きだけど、こういう不意打はやめてほしい。
熱い耳を押さえながら視線で抗議してみたが、満足そうな顔をして「あっちで食べようか」と、ソファの前にあるローテーブルの方へと行ってしまった。
広い背中を見送りながら、もう、と小さく呟いてから結も直人に続く。
「今週も忙しかったみたいだね」
最近、新調したばかりのふかふかなラグの上に座って、運んだ料理を直人と囲んだ。一週間ぶりの直人との食事はとても久しぶりに感じる。
「ちょうど今、担当してる案件が重なっていてね。おかげでカフェに寄る時間もなかったよ。電話だけじゃなくて直接結の顔が見たかったのにな」
直人の形の良い眉が少し下がって、残念そうに息をつく。
今週はお互いに忙しくて、平日は全く会えなかったのだ。もちろん、仕事ができる恋人を持つということは、そういうことなのだろうと理解している。ただ、会えない時はひたすらに、会える日を心待ちにしているくらい、結の頭の中は直人のことで埋め尽くされている。
直人の言葉に結はほわりと心が温かくなった。
「俺のこと、考えてくれてたの? 仕事中でも?」
「そうだよ。たぶん、結が想像している以上にね」
困ったように微笑んで、もう既に一杯目を飲み干してしまって空いたグラスにビールを注ぐ直人は、どこか気怠い雰囲気をまとって見える。それが元々の美形に危うさを足していて、何気ない仕草にもドキドキさせられてしまう。
「えへへ、嬉しい」
「そう? 自分で言っておいてなんだけど、そんなの重くない?」
真っすぐな眼差しを向けられて、結はぶんぶんと首を横に振った。
「全然。会えない時間も、俺のこと考えてくれてたんだと思うと幸せだよ」
にやけてしまった口元を精一杯引き締めながら真剣に言ってみたものの、ふにゃりと目元が緩んでしまう。照れ隠しで小籠包にかぶりついていると、手が伸びてきて、さらりと前髪をすくわれた。
切れ長な瞳が優しくほころんで、「ありがとう」と彼が極上の笑みをこぼす。
それは、結の記憶の中でも上位に入るほどの、蕩けるような甘い笑顔だった。
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