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第6話 キャンドルの夜(後編)

 ベットルームの灯りを落として、サイドテーブルに置いてある月の形をした間接照明のスイッチを入れる。  一緒に並べたアロマキャンドルにも火を灯すと、神秘的な雰囲気のなか、ふわりと白檀(びゃくだん)の香りが広がって、息を吸い込むと森の中にいるような気分にさせてくれた。 「こんな感じかなぁ」    結はぐるりと部屋を見渡して、ベットに腰掛けた。シーツも新しいものに取り換えたし、柔らかな素材がお気に入りのサマーブランケットもふわふわに仕上げておいた。  インターネットで調べておいた必要な物たちは、ベットサイドの引き出しの中にそろっている。  綾子に悩みを打ち明けてから、この一週間、思いを遂げるために色々と準備をしてきたのだ。    デザートにと、作っておいたブラウニーまで食べて、後かたずけを引き受けてくれた直人に甘えて、先にお風呂を済ませた。全身にボディクリームも塗り込んだし、準備は万端。あとはシャワー中の直人が来るのを待つだけだ。   (うわ、緊張してきた。でも今日こそは、きっと直人さんと……。それにご奉仕もするんだ)    美味しい夕食にお腹も心も満たされて、落ち着きを取り戻していたはずの心臓が、思い出したように騒がしく鼓動を打ち始める。  ごくりと唾を飲み込むと、その音がはっきりと聞こえるくらい、部屋が静かなことに気付いた。 (そうだ、なにか落ち着きそうな音楽でもかけてみるかな)    側にあったスマートフォンを手に取って、プレイリストを開いた。いつもカフェで流れているようなリラックスできる曲をと指をうごかしていると、急にベットが揺れて背後からふわりと石鹸の香りがした。  あわてて振り返ろうとして、いつの間にか結の肩越しに手元を覗き込んでいた直人の横顔に、鼻がぶつかる。 「ぶわあっ、びっくりした」  思わず鼻を押さえながら目を瞬かせる結をちらりと見て、ふっと口元を緩ませた直人だったが、結が手に持っているスマートフォンに視線を戻した。 「俺が部屋に入って来たのにも気付かないくらい集中して、何してたの?」  まだ少し湿って見える髪が、キャンドルの灯りを受けて艶やかに光っている。   「あ、えっと、部屋が静かだから、音楽でもかけてみようかなって探してたんだ」 「寝る前に音楽? ってこれ、結が準備したの? 部屋を暗くすると良い感じだね」  結の隣に移動して座った直人が、準備しておいたキャンドルを指さした。   「うん、綺麗でしょ。香りもするんだよ」 「ああ、この香りだったのか。どこからしてるのかと思ってたんだ。ほのかでいい香りだね」  直人の瞳にキャンドルの温かい灯りが映って、ひどく優しく揺れているように見える。引き込まれそうなきらめきに、きゅうっと胸が柔らかく締め付けられるのを感じた。  直人から目を離せないでいると、ふいにその瞳が結を捉えた。 「ん?」と、覗き込んでくる穏やかな眼差しに、何でもないという風に顔を横に振って、結もキャンドルを見つめる。  頬に熱が昇って、耳まであつい。部屋を薄暗くしておいてよかったと密かに思う。   「直人さん疲れてるだろうから、癒されるかなと思って選んでみたんだ」  落ち着かない気持ちを誤魔化すように、笑顔を直人に向けてみる。すると、笑みをたたえた唇が近づいてきて、額に柔らかく触れた。 「そっか。ありがとう、結」  優しい低音が耳に心地よくて、心が満たされていく。 「うん、どういたしまして」  幸せに頬を緩ませていると、微笑んだ直人によしよしと頭を撫でられた。  大好きな直人の大きな手だ。もっと撫でて欲しい。  そんな思いを込めて直人のことを見上げてみたが、その視線を遮るように、クシャリと大きくひと撫でされて、置かれていた手がゆっくりと離れて行ってしまった。 「さて、結も疲れているだろうし、寝ようか」  どこか期待を裏切られたような気分でいると、ベットの軋む音がして、直人が立ち上がった。  このままじゃ、一週間かけて準備してきたことが無駄になってしまう。行かせたらだめだ。  そう思って結はありったけの勇気を振り絞った。 「まっ、待って直人さん……っ」  言葉を発するのと同時に、直人のシャツの裾をぐっと(つか)んだ。思いがけず強く掴んでしまったせいか、その反動で体制を崩した直人がベットに尻もちをついた。 「っと、結? どうした?」 「ご、ごめんなさい。その、今日は俺……直人さんのこと、もっと癒したいんだ」  直人のシャツを掴んだままの手に力を込めて、うつむきがちに言うと、熱い頬に直人の手が伸びてきた。 「俺はもうたくさん癒されてるよ」  優しく頬に触れられて、くすぐったさに肩をすくめる。 「違うんだ。俺がしたいのはこういうこと……」  結はこちらを覗きこんでいた直人の方に身を乗り出して、彼の唇に自分の唇をそっと合わせた。ふにふにとした、柔らかな感触はいつ触れても気持ちいい。  遠慮がちに下唇を食むと、ちゅ、と小さく音がして、なんだかとても淫らな事をしているような気分になった。  顔から火が出そうなほどに恥ずかしくなって、ぎゅっと目を閉じる。そもそも自分からキスを仕掛けるなんて、今まで片手に収まるほどの回数しかしたことがない。    (どうしよう、めちゃくちゃ恥ずかしいっ)    唇を離しながら恐る恐る目を開けると、真っすぐに向けられた視線と目が合って、心臓が大きく跳ねる。その音が直人にも伝わってしまいそうな気がして、結は体を強張らせた。 「結からキスしてくれるなんて珍しいね。いつもみたいに、触ってほしい?」  穏やかな口調なのにどこか危うさを孕んだ低音は、それだけで結の情欲を焚きつけてしまうほど、艶やかに響いた。  結はその声に誘われるまま頷きそうになって、自分をたしなめるように意識を奮い立たせる。 「……っ、今日はダメ。俺が直人さんのこと、気持ちよくしたい」  震えそうになる声を押し殺しながら、思い切って直人の膝を(また)ぎ、乗り上げるようにして腰を下ろした。   「結? 嬉しいけど、無理しなくてもいいんだよ」 「無理なんかしてないよ。俺でもっと癒されて欲しいだけ」    直人を見下ろす体制になって首に手をまわすと、すぐそこで端整な顔が自分を見上げてくる。さっきキスした形の良い唇は薄く開いていて、そこに吸い寄せられるように、また自分から唇を重ねていた。 「んんっ、ふっ」  直人の唇を自分から求めるたびに、息が漏れてしまう。腰を支えるように回された直人の手がとても熱くて、意識するだけでジンとした微弱な電流にも似た感覚が、体を走り抜けて行った。  頬に熱が昇るのを感じながら、普段自分がされているみたいに舌で唇の隙間をたどる。ゆっくりと確かめるように先へと進むと、結の動きに合わせるように直人が迎え入れてくれた。  一生懸命に舌を絡めていく。  けれど、なぜだかいつものように直人から来てくれない。それでも大好きな恋人とのキスは、結の思考を緩慢にするのには十分すぎるくらい刺激的で、少し物足りなさを感じながらも、直人とのキスに没頭してしまう。 「ねぇ、結?」  少しキスを離した隙に名前を呼ばれて、溶けかけていた瞳を開いた。   「……そんなに擦りつけられたら、理性を試されてる気分になるんだけど」 「ふえ? 何が?」    キスの余韻で甘くてふわふわとした意識の向こう側で声がして、ゆっくりと視界に直人をとらえると、悩まし気に眉を寄せた彼が小さく息を吐いた。   「やっぱり無自覚なんだ。困ったな……」  直人の言葉の真意をつかめずにいると、すっと移動してきた直人の片手に、いつの間にか熱を帯びて頭をもたげていた自分の中心を、服の上から包み込まれてしまった。 「あっ、だめっ」    柔らかな刺激に思わず腰を引こうとしたが、直人のもう片方の手が許してくれない。 「キスしてる間、ずっと腰を揺らして俺のに結のここ、押し付けてきてたよ」 「うそっ、そんなこと……、あっ」  そう言う間にも指先でその形を確認するようになぞられて、結の意志とは関係なく体が跳ねてしまう。  恥ずかしくて視線をそらした先には、直人の大きな手によって弄ばれている自分の昂りと、そのすぐ側にもうひとつの兆しが見えた。有り有りとしたその存在に、結は更に頬を熱くする。 「結が可愛いすぎるから……。今日はちょっと抑えきれなかったな……」    ふ、と笑う気配がして、その呟くような声に視線を戻すと、直人が苦笑いをしている。 「直人さんも……、こんなになってる」  知らず知らずのうちの行動だったとはいえ、自分のしたことが直人を興奮させたかと思うと、恥ずかしさを押しのけて、体の奥底から高揚感がこみ上げてきた。  もっと直人に触れたいし、もっと感じてくれたら嬉しい。そう思うと、自然と手は直人のそこに伸びていた。 「結、なにを……っ」 「ここ……、触ってもいい?」  ズボンの上からも分かるくらいに、その存在感を露にしている直人のものを手に感じながら、結は懇願した。  そんな結を見つめたまま少し何かを考えた様子だった直人が、ふうと息を吐いた。それから伸びてきた手に、なめらかに顎を支えられる。 「じゃあ、一緒にする? 今ちょうどいい体勢だしね」  囁くように低音が響いて、甘やかなキスが寄せられた。  最初は額に、それから瞼に。鼻の頭から唇に移動して、しっとりと包み込むように吸われると、体が震えるほどに喜びを感じてしまう。   「……っ、だめっ」    必死の思いで直人の唇から逃れ、胸に手を当てて体を遠ざける。何が何でも、今日は流されるわけにはいかないのだ。   「今日はダメばかりだね。俺も結に触れたいんだけど……どうしたの、結?」  結の抵抗に怪訝そうにしながらも、直人が伺うように声をかけてくる。   「ごめんなさいっ、でも……いつも俺だけ気持ちよくなっちゃうから、だから……」  きゅっと唇をむすんで、おずおずと直人の膝から降りた。 「結?」  心配そうに見上げてくる直人を潤みきった瞳で見返しながら、無言のまま向き合った体勢で床に膝をついた。ベットに座る直人を、膝の間から今度は結が見上げる。 「これ、したい……から……」  緊張で心臓が煩いくらいに脈打って、自然と息があがってしまう。  震えそうになるのに耐えてそっと直人のズボンのゴムに手をかけ、息を呑んだ。それから、引き下ろそうと指先にぐっと力を込めたところで、重ねられた直人の手に制止されてしまった。 「どうしても?」  困ったような表情を浮かべた直人に、一瞬怯みそうになったが、結の意志は揺るがない。  熱望の眼差しで思いきり大きくうなずくと、一度、天を仰ぐように顔を上げた直人が真っすぐに結を見据えてきた。   「分かったよ。でも、大変だったらすぐやめていいからね」 「うん。上手くはないかもしれないけど、頑張る……」  高鳴る胸をどうにかなだめながら、まだ柔らかさが残ったそこを直人の下着から取り出し、両手で支えた。   (わぁ、俺のと全然違う……)   「……おっき」    思わず心の声が口をついて出てしまう。  頬を赤く染めながら直人の顔を伺うと、慈しむような瞳がこちらに向けられていて、結の胸を熱くさせた。  ゆっくりと唇を近づけてその先をそっとひと舐めすると、ぴくりと反応したのが嬉しくて何度もそこにキスをした。  直人の男らしい体躯に見合ったそこは、小柄な結のものに比べるとまるで違ったもののように感じる。  少し硬度が上がったのを唇で確認して、思い切っていちばん太い部分までゆっくりと口に含んだ。歯を立てないように慎重に、自分の舌と馴染ませるよう動いてみる。 「上手だね、結。でも……っ無理しないで、結ができるだけでいいんだよ。……っじゃないと、タガが外れそうだ……」  伸びてきた手にふわりと髪を撫でられて、少し吐息交じりの優しい声が降って来た。  しかし、直人の熱塊を愛撫するのに夢中な結の耳には、その言葉の半分も届かない。 「ん、ふっ……」    さっきより(かさ)が増したそこは、まだ完全じゃないはずなのに、すでに口内をいっぱいに占領して結の全てを恍惚とさせる。 「……可愛い結」 「んんっ」  直人の色めいた低音が耳をくすぐり、結は思わず体を震わせた。直接自分が責められているわけではないのに、唇で、舌で、耳で恋人を感じる度に、淫らな吐息が漏れる。  もっと直人のことを気持ちよくしたい。直人のこの熱塊で、自分をたっぷり愛してほしい。  含みきれない部分を慣れない手つきで扱きながら、胸を埋め尽くしていく熱い感情に結の中心はいっそう張りつめ、その先端からは自然と蜜が溢れた。 (あ……、なんか我慢できないかも)  夢中で大好きな恋人の熱塊に奉仕しながら、蕩けた思考のまま自身の下着の中に手を入れた。しとどに濡れた中心の蜜を指にまとわせ、その後ろへと滑らせていく。そうして辿り着いた秘園にそっと触れてみると、火照った熱を指先に感じた。  さっき、バスルームで確認した時は、こんなに熱くはなかったはずだ。  蜜で濡らした指を滑らせると、そこはまるで何かを求めるようにひくついているのを感じた。腹の奥が切なくなる感覚に結の体は熱を上げていく。 (ここで直人さんと……繋がりたい)  切望に潤んだ長い睫毛の瞳で直人を見上げて、気づかれないように自らの指先をぐっと押し当て挿入を試みる。  大好きな恋人と繋がるには、先ずはその場所をほぐさなければいけないとインターネットには書いてあった。指一本から始めて、徐々にその数を増やして……。  知識は十分にインプットしたつもりだ。 「ふ……っ」  けれど想像していた以上の抵抗感に、息を漏らす。  今まで、直人からマッサージのように揉み解されたことはあっても、一度も開かれたことのないその場所は頑なだった。それでも直人の熱を受け入れたい一心で、指先に力を入れる。 (いたっ……、痛いけど、でも……)  ほんの少し進めただけなのに、ぴりっとした痛みを感じて生理的な涙がにじんだ。だが、今日こそはと心に決めたのだ。そうでないと、直人の恋人だという自覚すら揺らいでしまいそうになる。  そんな焦りにも似た気持ちが湧き上がってきて、ぎゅっと目を閉じ指を進めようと試みた。 「結、何してるんだっ……!」  と、その時だった。突然の緊迫したその声に、結の肩が跳ねた。  反射的に直人の顔を見上げると、ひどく慌てたような表情の彼と目が合った。綺麗な形の眉が険しげに寄せられたその様子に、みるみるうちに体が強張っていく。   「……っ何って、その……これは……」  察しのいい恋人のことだ。結の状況を、一瞬にして理解したに違いない。  結が口ごもっていると、肩を掴んだ手に力強く引き起こされ、そのままの勢いでベットにうつ伏せにされた。 「あっ、あの、直人さ……」 「いいから、見せて」  直人の方を振り向こうとしたが、咎めるように言われて結は動きを止めた。中途半端になっていたズボンを下着ごとはぎとられ、抵抗する間もなく露にされた秘園が、キャンドルの灯りだけの部屋に晒される。 「よかった、傷ついてはなさそうだね」 「んっ……、そんなに見ないで」  安堵したような恋人の声とは対照的に、恥ずかしさと罪悪感のようなものを感じて結の声は震えた。双丘のすぐ近くで感じる直人の息づかいが熱くて身をよじると、はっとしたように手が離れていった。 「ごめん。肩、痛くなかった?」  直人に抱き起こされながら、聞き慣れた優しい声が伺いを立ててくる。  強く掴まれて、まだその感覚が消えない肩はすっかりはだけて、冷房の下で冷たくなってしまっていた。思わず身を震わせると、まるで壊れ物を扱うように、そっと丁寧にブランケットが掛けられた。 「平気……。直人さん俺、どうしても直人さんと……」  そう言いながら直人に視線を向けると、どこか思いつめたように複雑な色を浮かべた瞳とぶつかって、結は言葉を止めた。  互いの呼吸をする音だけで埋め尽くされてしまいそうなほどの静かな部屋は、怖いくらいに結を不安にさせる。居心地が良いはずの直人の隣なのに、今まで感じたことのない心もとなさを感じて、ブランケットを手繰り寄せた手に力を込めた。   「結の気持ちは分かっているつもりだよ。でも、急にそんなことしたら結の体が傷ついてしまうだろう」 「だっ、大丈夫だよ。少し痛いくらい大したことないし、それよりも直人さんとちゃんとしたいんだ。その、最後まで……」 「……結。俺は結に痛い思いも、苦しい思いもさせたくないんだ。こういうことは無理してすることじゃないよ。わかるよね?」  諭すような直人の口調に、結は俯いて自分の手に視線を落とした。  直人の言うことは理解できる。きっと、結のことを気遣ってそう言っていることも。  けれど、頭ではそう思えても心がついていかない。大好きな恋人と一つになりたいと思うことのどこがいけないのだろうか。  込み上げてくる思いに胸が押しつぶされそうになりながら、思い切って顔を上げた。 「じゃあ……っ、直人さんは俺とセックスしたくないの?」  自分の口をついて出た言葉に、結は息を呑んだ。結の言葉に少し目を見開いた直人を、涙を溜めた瞳で真っすぐに見つめる。 「結……、そうじゃない。むしろ俺は……」  苦し気に息を呑んだ恋人の言葉の続きを待つ間に、ぽろぽろと頬に雫が伝った。   「……俺たちは付き合ってるんだ。だから焦ることはないでしょう?」 「そんなの答えになってないっ。そんなんじゃなくて……っ、ただ俺は……」 「結……」  直人が困ったように眉尻を下げる。  これは単なる自分の我儘なのかという思いに、胸が詰まって言葉にならない。  ここまで気持ちをさらけ出しているのに、それでも最後までしようとしてくれないのは、考えていた通り結が年下で魅力がないからだろうか。  それとも、やはり結が男だからで、もしかすると他に相手が……。  次から次に頭を出す不安の種に心が押しつぶされそうに重たい。  「……っ」  決壊したダムのように溢れる涙が零れ落ち、腿の上でぎゅっと握りしめた手を濡らす。   直人の長い指先が伸びてきて拭おうとしてくれたけれど、素直に甘えることができず顔を背けると、少しだけ睫毛をかすめて離れていった。 「……っ、ごめんなさい。今日は……帰ってくれる?」 「わかった。冷えすぎないように、冷房は消しておくからね」  彼が静かに立ち上がる。   「……っ」 「そうだ、来週……。いや、何でもない。……おやすみ、結」  いつも以上に優しい声が、せつなく胸に響く。  部屋の入り口でこちらを振り返るのが分かったが、溢れ出てくる涙を拭うのに精一杯で目で追うこともできなかった。  ガシャンという冷たい金属音をたてて玄関の扉が閉まると、その音を合図に、結は力なく崩れるようにしてベットに横たわり嗚咽を漏らした。  いつの間にか降り出していたらしい雨が、窓をたたく音がする。  静まり返った部屋に響く雨音が、沈んだ結の心を更に重たくした。目を閉じても涙は止まらない。  結は眠りがその雫を枯らすまで泣き続けた。

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