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第7話 ガラスの欠片(前編)
「失礼いたしました!」
ガラスが割れる衝撃音を追いかけるようにして、カフェの店内に結の声が響きわたった。
「結くん、大丈夫? 怪我は?」
「大丈夫です。すみません、すぐに片付けます」
心配そうに声をかけてきた店長の綾子に頭を下げて、落として割れてしまったコップの破片を蹴飛ばさないよう飛び越え、掃除道具を取りに急いだ。
ふとした瞬間に顔を出す心もとない不安が、結の心を乱した隙の出来事だった。
あのキャンドルの晩の翌日。
仲直りを申し入れるため、腫れぼったい瞼を押し上げてスマホを見ると、直人から『郵便受けを見て』というメッセージが送られてきていた。
その通りに確認すると結を気遣う言葉とともに、2週間出張で不在になる旨が書かれた手紙が入っていた。またそれとは別に、淡い水色のマーメイド紙でできた厚みのある封筒が一通添えられており、夏の休暇が取れたらと以前から話していた旅館の宿泊バウチャーが、綺麗に折りたたまれて同封されていたのだった。
(そういえば、部屋を出ていくとき何か言いかけていたような……?)
優しい恋人のことだから、きっとこのことを直接に伝えようとしてくれていたに違いない。そう思い返してみたところで時はもう既に遅く、その機会を潰してしまったのは自分で、直人に対して稚拙な態度をとって困らせてしまった現実を前に、結は項垂れた。
(俺、自分のことばかり考えて……。本当に子どもだよな)
直人はこんな自分を煩わしく感じなかっただろうか。もっと大人にならなければ、このままでは愛想をつかされてしまうかもしれない。
そんな悪い予感に心が埋もれそうになって、直人の痕跡が残るその手紙と綺麗な封筒をぎゅっと胸に抱きしめた。
直人に嫌われたくないし、何よりも失いたくない。その一心で部屋に駆け戻り、とにかく早く謝らなければと直人に電話をかけた。
だが結の焦る気持ちとは裏腹に、その日話ができたのは夜も更けてからだった。
『結、ごめんね。初日から仕事が立て込んでて、なかなか連絡できなかった。声……、何かあった?』
沈みきった結の心を読み取ったかのように、電話越しの恋人の声は優しさで満ちていた。
「直人さん、その……、昨日はごめんなさい。俺、勝手なことばかり言って困らせたよね」
『昨日のこと? あんなの困らせたうちに入ってないし、俺の方が……。いや、それで結は元気がなかったの?』
「ん……。それに追い出すようなことまで言って、嫌な思いをさせたなって。本当にごめんなさい」
『気にすることはないよ。謝るのは俺のほうだ。出張のこと、早く言っておくべきだった』
ふうっと息を吐く音が微かに耳に届いて、困ったように笑う直人の顔が目に浮かんだ。
直接顔を合わせていなくても、すぐそばにいるような感覚に、結は目頭が熱くなるのを感じる。
「そんなこと……」
直人の声の温かさに安心したせいか、気を緩めると涙が込み上げてきそうになるのを必死に堪えた。
『少しの間寂しい思いをさせるけど、一人でもちゃんとご飯を食べるんだよ。結は俺がいないと、たくさん食べないんだから』
「う、それはっ。なんでそのこと……」
泣きそうになったのを悟られなかったことに安堵しながら、予想外の直人の言葉に結は肩をすくめた。
確かに、直人と一緒に食事をするときは食べっぷりの良い彼につられて、元々は小食な結も普段より多く食べてしまっている。その反動でというわけではないが、一人の時は簡単に済ませることがほとんどだ。
だがそれは本当に一人の時のことで、なぜ分かったんだろうと返す言葉に困っていると、受話口から直人の明るい笑い声が聞こえてきた。
『そのくらい分かるよ。結のことなら、なんでもお見通しだよ』
「なっ……」
結は大きな目を瞬かせて、じわりと頬に熱が昇って行くのを感じた。いつだって直人の言葉は心を暖かくしてくれる気がする。
『何かあったらいつでも連絡して。それと俺に構う時間が浮いたからって、バイトばかり入れちゃ駄目だよ』
「もう直人さん、俺を何だと思ってるの? 俺のことはいいから、お仕事頑張ってね」
直人にこれ以上心配をかけないようにと、明るく声を発する。するとまた穏やかな笑い声が聞こえて、つられて結も自然と笑みをこぼした。
寝るまでにまだ仕事が残っているという直人を気遣いながら通話を切ると、しんと静まり返った部屋に一人、まるで取り残されたような気持ちになる。
(直人さん、ずっと俺の心配ばかりしてたな……。でもやっぱり直人さんにしてみれば俺はまだ学生で、年下で、男じゃなかったら……)
いつもと変わりない直人の様子にほっと胸を撫でおろしたのも束の間、結は昨晩の出来事で心の中に生まれた、息苦しさにも似た感情に抗えずにいた。
直人が出張から帰ってきて、顔を見て直接話をしてその広い腕の中に身を置けば、この気持ちを取り払うことができるのだろうか。
すっきりと晴れないままの心を持て余した結を置き去りにして、直人と離れて過ごす時間はいつも通りに淡々と過ぎて行ったのだった。
そして、やっと10日目の今日。
気を引き締めなければと自分に言い聞かせて、アルバイトに精を出していたはずなのに。
結は割れたコップを見つめながら、自身の心の弱さを歯がゆく思った。
「さすがに2週間は長いわよね」
ただのガラス片になってしまった無機質な欠片を掃き集める結に、まるでその心の中を察したようにかけられた綾子の言葉が身に染みる。
「そうですね」と苦笑いしながら、そう返すので精一杯の自分が申し訳なくなって、早歩きで店の裏口にある不燃物置き場へと向かった。
ガラガラと音を立てて滑り落ちていくガラスを見送ってから、少し気持ちを落ちつけようと深呼吸をして空を見上げる。
つい最近まで空のてっぺんから地面を照らしていた真夏の太陽は、いつの間にかその強さを和らげ、すっかり大人しくなったように見えた。吹き寄せてくる風も、どこか秋の香りを含んでいて、気づけばもうすぐ日が暮れようとしていた。
(直人さんが帰ってくるまで、あと4日。大丈夫。あと少し……、大丈夫)
何度もそう心の中で呟いて、最後にもう一度深呼吸をしてから店内へと踵を返した。
「店長、それは?」
掃除道具を置いて戻ると、綾子が何やら作業をしていた。不思議に思って聞いてみると、首をかしげている結を見るなり、綾子の顔がぱあっと明るくなった。
「結くんごめん! お使いを頼んでもいいかしら?」
「はい、大丈夫ですよ。その袋ですか?」
「そう、これ。これを美希の店まで届けて欲しいのよ」
「あ、これさっき店長が焼いてたクッキーだ」
綾子が差し出してきた袋には、数種類の味のクッキーを詰め合わせた小袋がぎっしりと入っていた。綾子が手を離すと、ずっしりとした重みが結の腕をしならせた。
「ごめん、重いでしょ? 実家から送ってきた自家製ジャムの小瓶も入ってるから、気を付けてね」
「はい、了解です」
結は明るく返事をし、控室に向かった。エプロンを脱いで、ユニフォームである白いシャツの上にベージュの薄いカーディガンを羽織る。
「じゃあ、ちょっと出てきますね」
エスプレッソマシンの前でコーヒー豆を追加している綾子に声をかけて店の出入り口へ向かうおうとすると、「あ、待って!」と大きな声で呼び止められた。
何事かと瞳を丸くする結に、綾子がニッと笑顔を向けてくる。
「今日はそのお使いが終わったら、そのまま上がっていいから」
「でも……、まだ勤務時間が終わるまでだいぶありますよ」
結が綾子と時計を交互に見合わせながら戸惑っていると、カウンターから出てきた彼女が圧力の効いた視線で目の前に迫ってきた。
「結くん」
「は、はい」
さっきの笑顔と打って変わって、真剣な表情の綾子に何を言われるのかと内心怯えていると、少し声のトーンを下げた彼女が口を開いた。
「良い恋をするには、自分のことも大切にしてあげなきゃダメよ。彼氏が出張でいないからってバイト入れすぎだし、一人であれこれ考えすぎるのも良くないわ。だから、今日はもうお仕事終わり! あとの時間はのんびりすること! いいわね?」
真っすぐに人差し指を立てながら念を押されて、結は思わず後ずさった。
「でも、バイト入れすぎって店長……。助かるわって、言ってたのに……」
「それは経営者としては当然でしょう。でもこれは大切な弟分を心配してる、姉としての忠告よ。でもってこっちの方が数倍大事なことだわ」
「綾子さん……」
「お店のことは気にしなくていいから、ね」
動揺する結に、綾子がふわりと表情を緩めた。
「すみません、ありがとうございます」
「分かったならよろしい! ということでお使い、頼んだわね」
ひらひらと手を振りながらカウンターへと戻って行った綾子の温かな気遣いに背中を押され、結は店を出た。
駅に向かって歩く結を、沈みかけた太陽の柔らかな光もまた、包み込むように背中を照らしてくる。
結が直人の出張を知った日、また例のごとく何かを感じ取った綾子にあっさりと事情を白状させられてしまった。
だが、誰かに話を聞いてもらうと楽になるというのは、綾子に限ってはその通りだと結は思った。なぜなら彼女は、結の心の内側まで覗こうとするようなことはしないからだ。ただ結の話に耳を傾け、少し強引にも思えるが気持ちのこもった助言をくれる。
(結局また……、綾子さんにも気を遣わせてしまったな)
結は両手に下げている袋を見て思わず苦笑した。このお使いも、本当は明日の仕入れの時で十分間に合うはず。
きっと、結が気分転換できるようにという彼女の計らいなのだろう。
(俺はどれだけ恵まれてるんだろ。直人さんからも綾子さんからも大切にしてもらっているのに、しっかりしなくちゃだめだよな)
直人が帰るまであと4日。帰ってきたら、話したいことがたくさんある。
これからの二人のこと、自分の気持ち。伝えることで分かり合えることはたくさんあるだろうし、何よりも早く直人の顔が見たい。そして少しでも成長した自分でいたい。
それなのに……。
心の靄が晴れないのはどうしてなのか。結は電車の窓から見える夕日を眺めながら、自分の心に問いかけ続けた。
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