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第8話 ガラスの欠片(後編)

 改札口を過ぎて大通りに出ると、周辺にはオフィスビルやビジネスホテルが立ち並び、夕方のこの時間も行き交う人や車で騒然としていた。  美希の店には綾子の仕入れを手伝うため何度か訪れているのだが、二駅しか離れていないはずなのに『月の雫』がある街の雰囲気とはまるで違う様子にいつも驚かされる。 (美希さんのお店は、あっちだったよな)  駅からそれほど遠くないビルの一階に入っている美希の店まで、歩いておよそ10分。結の方向音痴が発揮されない範囲の距離だ。おかげで無事に到着し、お使いを済ますことができた。  店に入るなり、綾子からどんな風に連絡が行ったのかは分からないが、まるで久しぶりに訪ねてきた孫にするように歓迎され、淹れたてのコーヒーまでごちそうになってしまった。  外の喧騒を全く感じさせない静かで落ち着きのある店内は、つい長居してしまうほどに居心地が良かった。くつろいで行ってねと言う美希の言葉に甘えてしまい、席を立った時にはもうすっかり陽は沈み、空には夜の帳が降りていた。  美希に挨拶をして外に出ると、少し冷やりとした夜の空気が結を包み込んだ。  ビルの窓にはたくさんの明かりが点り、就業時間を過ぎても仕事に励む大人たちの苦労が目に見えるようだった。  スマホの時計はちょうど7時を表示している。 (直人さんもまだ仕事中かな? 声が聞きたい……。帰ったら電話してみようかな)  離れた場所にいる恋人を想いながら駅に向かう。  行き交う人のほとんどはスーツを着たサラリーマンで、つい直人の姿を重ねてしまいそうになる。結は恋しさを胸に小さく溜息を吐いて、気を紛らわすように周りの景色に目を向けた。  外出すると言ったら、家と大学、バイト先との往復が主である結にとって、夜のオフィス街はどこを見ても目新しく、自分の知らない世界に迷い込んだようだった。 (あれ? こんなところにホテルがあったんだ)  いつの間にかほとんど観光客のような気分で歩いていた結は、ひときわ明るい照明をかかげた建物にふと目を留めた。  洗練されたギャラリーのような外観は、最近たまたま雑誌で見かけたデザイナーズホテルにそっくりだった。入り口の上部に記された名前に、ホテルの文字が無ければ、一目では分からなかったかもしれない。  現に、行きも同じ道を通ったにも関わらず、全く気付かなかった。  個性的なのに、不思議と周囲にしっくり馴染んでいるそのホテルのたたずまいに感心しながら道に視線を戻すと、ハザードランプを光らせた一台のタクシーが滑り込むように走って来た。少し先の沿道に静かに停車する。  するとドアが開き、すらりとした長身に細身のスーツをきっちりと着こなした男性が降りてきた。  少し癖のある柔らかそうな髪をサイドに流したヘアスタイルはスタイリッシュで清潔感があり、遠目でも分かる整った横顔の涼し気な目元の人。  結はその姿を確認するなり、長い睫毛に囲まれたその瞳を輝かせた。 「直人さん!」  反射的に声に出して、思いがけずあらわれた恋人の名前を呼んだ。  だが、直人はその声に気付いた様子はなく、結に背を向けたまま降りたばかりのタクシーの後部座席を覗き込んでいる。  大好きな恋人がそこにいるのだ、見間違いではない。  多くの人や車が行き交う騒がしいこの場所で、自分の声が届かないのも無理はないだろう。  はやる気持ちを抑えながら、久しぶりに会う恋人の方へ歩み寄ろうと一歩前に足を進めた。瞬間――。  結は目に飛び込んできた情景を前に、思わず息を呑んだ。  よく見ると直人の手には豪華な花束が抱えられており、車内へと伸ばされた彼の反対側の手にエスコートされるように導かれ、その視線が向かう先から女性が降りてきたのだ。  胸まである落ち着いた茶色の髪は綺麗に巻かれ、ひざ丈の白いワンピースにジャケットを羽織った上品な出で立ちの女性。歳は直人と同じくらいか少し年上だろうか。結の知らない女性が、穏やかな笑顔を直人に向けていた。  直人と並ぶと、きっと誰がどう見ても美男美女のカップルにしか見えない。  その二人が何やら言葉を交わし、仲睦まじくといった様子で肩を並べてホテルへ入って行く。 「直人さ……、う……そ」  結は心臓が縮むような感覚に全身を強張らせ、その後ろ姿を見送った。夏なのに、背筋を冷たい汗がつたう。  呆然と、まるで時間が止まってしまったかのように立ち尽くしていると、前から歩いて来たサラリーマンとぶつかり、危うく転びそうになった。 「すみませんっ……」  咄嗟に謝ると、こんな所に突っ立って邪魔だと言わんばかりの顔をこちらに向けながら、通り過ぎて行った。 「……っ」  ぶつかった肩が、ズキズキと痛む。  よろけた体を支えてくれるはずの手は、ついさっき、結とは違う誰かに差し出されていた。  キャンドルのあの夜に、結の頭をよぎった不安が頭の中で想像から現実へと形を変えていく。  同性である自分が直人の恋人になれたこと自体奇跡のようなことなのに、さらに体まで繋げたいなど、望んではならないことだったのだ。直人には自分のような何の取柄もない学生ではなく、ちゃんとした大人の女性が必要なのだ。    目の当たりにした現実に、そう戒められた気がして結は奥歯を噛み締めた。心が、今にも砕けてバラバラになってしまいそうだ。  小刻みに震える手を見つめて、なんとか心を保とうと必死になっていると、すぐ近くで大きくクラクションが響いた。  けたたましい音にびくりと肩を震わせた結は、何かに急き立てられるようにして歩き出した。  一歩、二歩と足を進める度に、少しづつ体の感覚がぼやけて、胸の痛みだけがその強さを増していく。  これ以上、何も見たくないし感じたくない。  ただその一心で歩みを進め、我に返った時には、自宅のソファに身を投げ出すようにして座っていた。 (俺、いつの間に帰ってきたんだ……)  重い体をやっとのことで起こして、ぼんやりとした頭を抱えこんだ。電気もつけずにいったいどれくらいの時間、こうしていたのだろうか。随分と時間が過ぎたような気がするが、時計を見る気力さえ湧いてこない。  電車に乗ったところまでは、うっすらと覚えているが、それからあとは夜の暗闇に飲み込まれてしまったように朧げだ。  もしかしたら、結の見たものはただの夢だったのかもしれない。ふと、頭の隅にそんな考えが浮かんだ。  朝が来て目が覚めたら、この締め付けるような胸の苦しみも、目に焼き付いて離れない知らない女性と並んだ恋人の姿も、綺麗に消えてくれるのではないか。  そして、いつも通りの穏やかな日常が始まるのだ。    結は夢の中に戻ろうと、もう一度ソファに深く座り直しゆっくりと瞳を閉じた。  その時だった。  来客を知らせるチャイムが静かな部屋に鳴り響いた。それだけにとどまらず、誰かが玄関の扉をしきりにノックしている音も聞こえる。 (誰だろ……)  かすむ目を擦りながら、モニターの前まで歩いて行った。  画面には、ぼやけたものしか映っていない。外部カメラのよほど近くにいるのだろうか、不明瞭な画面を力無く見つめていると、玄関をノックする音が止んだのと同時にその映像が鮮明になった。 「……っ、どうして直人さんが……」  モニターに映し出された人物を見た瞬間、結は思わず後ずさっていた。  煩いほどに脈打っている心臓を抱えて呆然としていると、部屋の入り口に置いたままにしていたバックの中で、スマートフォンが振動していることに気付いた。恐る恐る手に取り、確認した画面には着信中の表示と一緒に、直人からの不在着信やメッセージの通知でいっぱいに埋め尽くされていた。  電話に出るべきか躊躇したが、このままにしておくこともできない。  結は思い切って、スマートフォンを耳元へ当てた。 「……もしもし」 『ああ、結! やっと繋がった。今どこ? 結の部屋の前にいるんだけど、まだ帰ってない? もし外なら迎えに行くから、場所を教えてくれる?』  いつもの落ち着いた直人らしくなく、慌てた様子で矢継ぎ早に問いかけてくる彼に少し圧倒されながら、返す言葉に困っていると『結?』と催促の声が追いかけてきた。 「あ、いや……、家にいるけど」  慌ててそう答えて、すぐに後悔した。  現実とも夢とも信じがたい現状をどう受け止めたらいいのか、頭も心も追いついていない状況なのに、その渦中の人物である直人にどんな顔を向ければいいのか分からない。  ぐるぐると考えていると、直人が大きく息をつく音が聞こえた。 『そうか、良かった。予定が変わって早く出張が終わってね。ずっと連絡してたんだけど、反応がないから何かあったのかと思って心配したよ。少し顔を見たいんだけど、玄関を開けてくれる?』  直人の心配そうな声に、胸がきゅっと小さく疼くのが分かった。大好きな声に、涙が込み上げてきそうになる。  だが、今泣いたら直人から変に思われてしまうかもしれない。結は深呼吸をして、なんとか心を落ち着けようと努めた。  思えば、直人が女性とホテルに入っていく所を見た後も、結は涙を流さなかった。そこで泣いてしまったら、目の前の現実を認めたことになる気がして、心がブレーキをかけたのだ。 「ん……、いま開けるね」  静かに通話を切り、玄関に向かいながら胸に手を当てた。息苦しく感じるほどに、心臓が大きく脈打っている。  玄関の扉を前に、もう一度深呼吸してから玄関の鍵を回す。  ガチャリと重厚な音がして、緊張からか震えそうになる手に力を込めて取っ手を握ると、結が開けるより早く玄関が大きく開いた。 「わっ……」  予想外のことに思わずバランスを崩した結の体を、伸びてきた逞しい腕に抱きとめられる。おかげで転ばずに済んだことにホッとしていると、そのまま力強く抱きしめられた。 「ごめん、怪我させるところだった。早く結の顔が見たくて……、ごめんね」  くしゃりと後ろ頭を撫でられて、優しい声が耳に響いた。久しぶりの直人の腕の中は、変わらず安心できるのに、胸の奥にズキンと痛みを感じる。 「心配……させた?」  やっとの思いで絞り出すように発した声は、自分で聞いても情けないほどに小さく頼りなかった。 「うん、少しね」 「ごめんなさい。バックの中にスマホ入れっぱなしにしてて、気付かなかったみたい」 「うん、大丈夫だよ。こうして会えたし、そんなところかなと思ってたから」  直人がクスリと笑う気配がして、背中に回された腕に力が込もった。  結のものより少し高く感じる体温の心地良さに、いつものように身を預けて瞳を閉じる。  だがそれも束の間、直人の肩口からふわりと漂ってきた甘い花のような香りが鼻をかすめて、結はハッと目を見開いた。  直人のものではない知らない誰かの香りに、落ち着きを取り戻しつつあった結の心臓は、再び鋭い痛みを伴ってざわざわと不快なリズムを奏で始める。 「……っ」  その痛みに耐えられなくなって、結は思わず直人の広い胸を押し返すようにして身を離した。  夢だと信じたかったものは、やはり紛れもない現実だったのだ。そう思うと、今すぐこの場から逃げ出してしまいたい気持ちでいっぱいになった。   「結?」  当惑したような直人の声に心が痛む。  けれどこのままだと、自分でも理解しきれていない混沌とした感情を直人にぶつけてしまいそうで怖かった。 「あの……、ちょっと大学の課題が立て込んでて、それで……疲れたみたいで、ごめん」  精一杯の言い訳は、直人についた初めての嘘だった。  結の言葉に、気遣うようにゆっくりと直人の体が離れていく。 「そっか。夜食でも一緒にと思ってたけど、また今度がいいね。課題、まだ沢山あるの?」 「うん。今週中に提出しなきゃいけないのがまだ終わってなくて。だから、週末まで会えないかも……」  消え入りそうになる声を振り絞って、更に嘘を重ねていく。それがばれてしまいそうで、直人の顔を見られないでいると、ぽんっと大きな手で頭を撫でられた。 「わかったよ。でも、根を詰めすぎないようにね。必要だったら連絡して。夕食くらいは作りに来るから」  そう言って、直人の涼し気な瞳が柔らかな弧を描き、ふわりとした笑顔が向けられた。結の大好きな笑顔だ。  なのに心は相変わらず、鋭い痛みを訴えてくる。 「ありがと。でも、たぶん大丈夫。直人さんもゆっくり休んでね」 「ああ、結もね。また連絡する」 「うん、おやすみなさい」  なんとか笑顔を作って直人を送り出そうとすると、心なしか怪訝な色を浮かべた直人が、困ったように眉を下げるのがわかった。  なんとなく寂し気に見える彼が、背を向ける。 (ごめんなさい、直人さん。一緒にいたら俺……)  スーツケースを転がしながら、エレベーターのある方へ歩いていく直人の後ろ姿を見送って、静かに玄関の扉を閉めた。   「……っ」  次から次へと熱い涙が頬を伝う。  どうしても直人の前では泣きたくなかった。涙の理由を聞かれて、なんと答えていいか分からなかったからだ。それに、理由を答えたとして、その先に待っている望まない事実を直人の口から聞かされることなど、結には到底耐えられる気がしなかった。    結は小さくしゃくりを上げながら、まだ直人の体温が残る体を抱きしめた。

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