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第9話 ビジューの煌めき
扉の開閉を知らせるドアチャイムの耳を打つ大きな音で、結は目を覚ました。
一定の間隔で子気味良く揺れる電車の振動は、この数日間、寝不足が重なっていた結をいとも簡単に夢の中へと連れて行ってしまったのだ。
窓の外はビルや家々が密集した風景から、いつの間にか青く茂る山々に囲まれた田園風景へと姿を変えていた。
「起きた?」
目覚めたばかりでまだぼうっとした頭に、隣から柔らかな低音が響いた。涼し気な瞳が、結の顔を覗き込んでくる。
「んっ……、俺いつの間に」
「出発してそんなに経たないうちに眠ってしまってたよ。よほど疲れてたんだろうね」
「ごめんなさい、せっかくの旅行なのに」
「いいから、まだ寝てて。着いたら起こしてあげる。ほら、こっち」
あくびで滲んだ涙を拭っていると、隣の席の直人に寄りかかるようにと促された。腰に回った手に導かれて促されるままその肩に身を預けると、つむじに優しいキスが降りてきた。
(ずっとこのまま……、時間が止まってしまえばいいのにな)
結は甘い感触を享受しながら、再びとろりと目を閉じた。直人の温もりを、もう少しだけ自分だけのものにしていたいと心から思う。
旅行に発つ前日の昨日。
結局、直人とあの女性との関係に触れないまま、約束の週末を迎えようとしていた。
聞くまでもなく、直人のことを思えば、結が身を引くことが一番良い方法なのは一目瞭然なのは分かっている。
だが、直人を好きだと思う気持ちは、嘘をついてまで距離を置いていたこの数日の間にも、ずっと溢れだしてくるばかりで、いっそう結の胸をきつく締め付けた。
そんな複雑な心境を抱いたまま、直人と一緒にいるのは辛い。
だから、旅行に行くべきではないのではと考えあぐねていた矢先、直人から、旅行が終わったら話したいことがあると伝えられたのだ。
いくら恋愛初心者の結でも、その言葉の意図する先にあるものが、自分の望まない未来だろうということは容易に想像できた。
幸い、と言っていいのかは分からないが、直人に旅行をキャンセルする気は無いということは分かった。
ならばいっそのこと、この旅行を直人の恋人として過ごす、幸せな最後の思い出として心に焼き付けようと思ったのだった。
そうしたらきっと、直人と離れることになっても前を向いていける気がする。
そう思うことで、結は自分をなんとか納得させたのだった。
結たちが泊まる旅館までは、最寄駅から送迎車でおよそ10分ほどで到着した。
静かな田舎道を行き、山のふもとの豊かな森の中にその旅館はあった。
フロント棟を中心に、枝分かれするように全室離れの宿泊棟へと続いている。客室にはそれぞれ花の名前が付けられているらしく、結たちは『ハナミズキ』だと案内された。
客室まで続く小道には石畳が敷かれており、その両脇にはまだ葉が青い紅葉や百日紅 の木々が、自然のアーチを作って歓迎するかのように枝を伸ばしている。
「結、足元に気を付けて」
「うん」
周りの風景に気を取られていると、結の少し先を歩いていた直人が振り返った。
笑みを浮かべた彼との間を、ざあっという木々の枝や葉が触れ合う音を立てながら、柔らかな風が吹き抜けていく。
言われた通り足元に注意しながら進んでいくと、直人の背中越しに趣のある瓦屋根の平屋が見えてきた。まるで森に包まれて建っている様子は、現実から遠く離れた場所のように感じる。
さっきまで吹いていた風は止んで、あたりは驚くほど静かだ。
この先は、直人と二人だけの空間。
今更二人きりになることなど、意識するほど初心ではないはずなのに。
どちらかの家で過ごすいつもの週末とは違い、これは結にとって特別な時間なのだと思うと、やけに落ち着かない気持ちになった。
にわかに騒がしくなった胸の音に気付かないふりをして、澄んだ空気を思いきり吸い込む。それをゆっくりと吐き出して前を向くと、もう一度結の方を振り返った直人に、おいで、とそっと手を差し出された。
結の手より、ひとまわりほど大きな手を掴んで、引き戸の玄関に足を踏み入れる。
直人につづいて靴を脱ぎ短い廊下を抜けて和風で畳張りの居間に入ると、広い縁側を挟んだ向こう側に、周辺の森を小さく模したような緑の坪庭が広がっていた。
木に覆われた外とは違い、そこだけぽっかりと開けたように明るい空間のその庭は、木々の葉が陽の光を受けてキラキラと輝いて見える。
「わあっ、すごい」
結は思わず声をあげて、手に下げていた荷物もそっちのけで、その光に導かれるように大きなガラス窓の側に立った。
様々な緑が輝くその一角は、まるで森の中の宝石箱と言っても過言ではないほど、美しく見える。
食い入るように庭を見つめていると、後ろからクスクスと笑う声が聞こえてきた。
「気に入った?」
落ち着いた声に振り返ると、ゆっくりと歩み寄ってきた直人が隣に並んだ。
「うん。こういうの好きなんだよね」
高揚感に目を輝かせながら言う結に、直人が一層笑みを深くする。
「旅館自慢の庭なんだって。夜になったら、ライトアップされるらしいよ」
「そっか、それもきっと綺麗だろうね」
「宿、ここにして正解だったな。結とのいい思い出になりそうだ」
直人が穏やかな顔でそう言ってガラス窓を少し開けると、清涼感のある森の空気が室内に流れ込んできた。
「……そうだね」
少し寂しさを感じながら笑顔を直人に向ける。
すると、同じように笑顔が返ってきた。
窓越しに入る陽の光を浴びた直人の表情は、いつも以上に優しさで満ちているように見えて、結の心を熱くする。
好きだという気持ちが溢れそうになって、慌てて緑の庭に視線を戻すと、鏡のように磨かれたガラス窓越しに、恋人が少し戸惑ったような表情を結に向けるのが見えた。
(良い思い出に……)
言い聞かせるように心の中で何度も呟く。何気なく発せられた直人の言葉にも心が反応してしまうのは、納得したはずの気持ちに対する抵抗なのか。
そんな思いを振り払うべく結は努めて笑顔を向け、何か言いたげにしている直人を妨げるように口を開いた。
「そうだ、荷物! どこに運べばいいかな」
思いのほか勢いよく飛び出した声に、直人が少し目を大きくする。
「ん? ああ、そうだね。寝室に運ぼうか」
「了解。寝室は……、あっちか」
一周ぐるりと室内を見渡した。
居間から対角線上にローベットが二つ並んだ洋風の寝室が見える。どうやら寝室からも、坪庭が望めるようになっているらしい。
さっそく入り口に放ってきた荷物の方へと踵を返すと、横から伸びてきた直人の手に肩を掴まれ引き止められた。
「結はいいから、ここにいて」
半ば強制的にすぐそばの椅子に座らせられる。
「でもっ。俺も一緒に運ぶよ」
「いいから。荷物そんなに多くないし、ここまで来るのに疲れたでしょう。座って休んでて」
あっという間の出来事に驚きつつ、すぐに立ち上がろうとしたが、ぐいと引き戻されて再び椅子に着地してしまった。
こうなると、直人の言葉に従うしかない。
結が諦めたのが分かったのか、ぽんと結の頭を撫でた直人が離れていく。その後ろ姿を見送って、結は深く息をついた。
椅子に深く腰掛け背もたれに体重をかけると、なんだか急に疲労感が襲ってきた。
直人との旅行は始まったばかりなのに、心から楽しめないでいる自分が不甲斐ない。
(思い出作り……、難しいな)
庭の眺めは穏やかだけれど、それとは対照的に、結の胸の中はざわざわとした複雑な感情でひしめき合っていた。
しばらくして寝室から直人が戻ってきた。手には浴衣と入浴袋を抱えている。
「荷物、ありがと。……お風呂?」
「うん。大露天風呂に行こうと思ってるんだけど、結も一緒に行かない?」
直人と露天風呂。旅行ならではの提案に胸がときめいたが、沈みかけている気持ちを立て直すために、今は少しでも一人になる時間が欲しい気がした。
「俺は……、今はやめとく。もう少し部屋でのんびりしてるよ」
「そっか。一人で平気? 寝室の向こうに内風呂があるから、いつでも風呂には入れるし……、必要なものはない? 飲み物とか、間食とか」
「平気。俺のことは気にせず、直人さんはゆっくりお風呂に入ってきて」
色々と気にかけてくれる直人の気持ちがじんわりと心に染みて、結は自然と笑顔になれた。
玄関を出る直前まで「何かあったら連絡して」と、変わらず優しい直人を送り出して居間に戻る。
一人、静かになった空間を見渡すと、さっきまで明るかった緑の庭には、僅 かに影が落ち始めていた。
(時間がすぎるの早いな。もう、夕方か)
風呂上がりの直人が戻ってきて暑くないようにと、エアコンの温度を少し下げて結は寝室に向かった。
ベットの上には一組の浴衣が置いてある。きっと直人が出してくれたのだろう。
直人が持っていた濃紺一色のものとは違う、青に白い絣 模様が入った浴衣だった。
(せっかく旅館に来たんだし、着替えるかな)
浴衣を広げてみると、さらりと触れる布の質感が肌に心地良い。その感触に、汗をかいた体のまま袖を通すことが急に躊躇 われて、やはり結も入浴することにした。
必要なものを取り出そうと鞄を開けて、ごそごそと手で探る。
一泊だからと、できるだけ簡素にまとめたつもりの荷物だが、旅行慣れしていない結の鞄の中は案外ぎっしりと詰まっていた。
下着にスキンケア用品、目当てのものを取り出していく。すると、見覚えのないつるりと光沢感のある紙袋が入っているのが見えた。
(あれ、こんなの入れたっけ……)
結は首を傾げながら取り出した。その紙袋の中心では、タキシードとドレスを着た二匹の上品な猫がこちらを見つめている。
(そうだ、これ! 綾子さんからもらった秘密兵器だ)
荷造りをする時に、藁にも縋る思いでお守り代わりに鞄へ入れたことをすっかり忘れていた。
『ここぞというときに開けるのよ』という綾子の言いつけを守って、中身を知らないまま持ってきたが、まさに開ける時は今なのではないかと閃いた。
少し緊張した面持ちでしばらく紙袋を見つめて、思い切って中の小袋を取り出す。
丁寧に結ばれたリボンを解き、ふわふわと柔らかな素材の袋の入り口に指を割り入れ、ぐっと大きく開いた。逆さまにした袋から、中身がするりと手のひらに滑り出てくる。
そうして結の目に飛び込んできたものは、キラキラと無数に煌めく細かなビジューの装飾だった。
きらびやかな輝きに一瞬面食らってしまったが、次第に頭がその正体を認識するにつれて、結の頬は赤く染まっていった。
(……っ、これって……!)
結の持っている知識を総動員させてたどり着いたその品物の正体は、セクシーランジェリーだったのだ。それもおそらく男性用の。
中心にふっくらとゆとりをもたせてあるのが、何よりの証拠だ。
純白の光沢感のある柔軟な布地でできたそれは、ちょうど臍の下に来る部分に豪華なティアラを表現したようにビジューが並んでいる。
そこから続く両側には、腰で結ぶであろうしなやかで長い紐が伸び、ふくらみ部分から下部へと進んだ、布地が狭くなり分岐した先のそれぞれにも同じように紐が垂れていた。
(綾子さん! 俺にぴったりなはずとか言ってたような……。こんな面積の狭い、しかも紐を結ぶ下着だったなんて……)
結は更に頬へ熱が昇るのを感じた。
手にしたその下着の、強すぎる印象を前にしばし固まっていると、玄関の開く音が聞こえた。
(えっ、直人さん戻ってきた?)
結は慌てて、逃げるように浴室へと駆け込んだ。
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