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第10話 優しくほどいて(前編)

「本当にきれい……」  鯛のお造りに、茶碗蒸し、黒毛和牛のしゃぶしゃぶに季節のデザートまで。  豪華な夕食を直人と一緒に堪能した結は、ライトアップされた坪庭を眺めていた。  すっかり暗くなってしまった空には星が瞬き、目の前にはおとぎ話の中に迷い込んだような、神秘的な雰囲気に姿を変えた景色が広がっている。  広い縁側に椅子を並べて座り、すぐ隣では直人が同じように庭を見つめて寛いでいるこの状況に、結は満ち足りた気持ちで溜息を漏らした。 「……幸せ」  囁くように小さな声でそう呟いた結に、直人が穏やかな顔を向けてきた。 「ご飯、美味しかったね」 「うん、すごく。品数多すぎて、全部完食できなかったのが残念」 「でも、小食の結にしては頑張ったんじゃない?」 「うん。おかげで、まだお腹が苦しい」  結は笑いながら、手を付けられなかったしゃぶしゃぶの後の雑炊を思い浮かべた。雑炊を食べ損ねたことは残念だが、久しぶりの直人との食事はとても楽しいものだった。  彼の清々しいほどの食べっぷりは相変わらずで、美味しそうに料理を口に運ぶ姿は、思い返してみても惚れ惚れする。  そんな恋人の様子を思い出してまた笑みをこぼしていると、甘やかな瞳が結を見つめていることに気付いた。 「良かった。いつもの結の笑顔だ」 「え……」  思いがけない直人の言葉に、はたと笑いを止めてその瞳を見返した。すると、ひどく優しい微笑みが降ってきて、結の心臓は大きく跳ねた。  なぜそんなことをと聞き返すよりも早く、直人が先に口を開く。 「今日ここに来る途中……、いや、俺が出張から帰ってきた日からずっと結の様子が変なのは分かっていたんだ。何か理由があるんだろうこともね。でも、結を追い詰めるようなことはしたくなくて聞かずにいたけど……。もし、話すことができるなら教えてくれないかな?」  優しい口調はそのままに、真摯な視線が結を真っすぐに射止めてくる。  できるだけ悟られないようにと隠してきたつもりの感情を、それほど容易く汲み取られていたことに、やはり直人には敵わないと結は思った。  だがここで、理由を話してしまうことが正解だとは思えない。結は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて、直人の瞳を見返した。   「……っ、そんな理由なんてないよ。ただ、課題とかバイトとか色々と重なってたから、疲れていたでけで……。だから、そう見えたのかも」    これ以上、直人に悟られたくない。結は懸命に言葉を重ね誤魔化した。  胸の奥がチクリと痛むのを感じたが、自分の心の痛みよりも、胸中を明かして直人を困らせてしまうことの方が怖いと思った。 「結……、俺に言えないことなの?」  直人の涼やかな目元が悲しそうに細められて、結の心を切なく締めつける。 「本当に……、本当に疲れてただけだよ。直人さん、考えすぎなんだから」  明るく言い放って、氷の入った水を一口、口に含んだ。どうかこれ以上、追及しないでほしい。  そんな思いを込めて、そっとグラスをテーブルに戻す。 「でも、結……、俺からはどうしても無理してるように見えるんだ」  覗き込んでくる優しい瞳に気付かないふりをして、結は水滴で濡れた自分の指先を無言で見つめた。どう答えれば、直人は納得してくれるだろうか。上手い言葉が見つからない。  直人との間に静かな空気が流れ、一秒がまるで永遠のように長く感じた。 「ほらっ、変な空気になっちゃう。せっかく直人さんとの旅行なのに……。直人さんとのこと、いい思い出として大切にしたいのに……っ」  息苦しさを覚えるような雰囲気を早く断ち切りたくて、思わず飛び出た自分の言葉が脳内で何度も繰り返される。  つい、思いを漏らしてしまったことに気付いたときはすでに遅く、見上げた先で目を丸くした彼と視線がぶつかった。 「結? それは……、いい思い出ってどういう……」 「いや、今のはそのっ、言葉のあやで……。ごめん、直人さん。俺、酔ったみたい。先に寝るね」  直人の返事も待たず、結は勢いよく立ち上がった。  急に目頭が熱くなるのを感じて、顔を背けたまま寝室へと急ぐ。  後ろの方で直人も立ち上がる気配がしたが、振り返ってそれを確認する勇気は、結には無かった。    きっと直人の顔を見れば、溢れてくる想いが止められなくなる。  今はただ耐えて、こぼれそうになる涙を堪え、気付かれないようにしなくては。その一心でベットを目指した。  だが、結の思いとは裏腹に、あと数歩というところで後ろから追いかけてきた直人に抱きすくめられてしまった。回された腕は、身じろぐ隙も与えてくれないくらい力強いのに、驚くほど優しく結を包み込んでくる。 「結、酔っぱらってしまうほど飲んでないでしょ。それに……、俺から逃げなきゃいけないほど、言いにくいことなの?」 「ちがっ、逃げてなんか……っ」  耳元で響く直人の切なげな声に、とうとう一筋の涙がこぼれ落ちた。  その一粒を追いかけるようにして、あとからあとから静かに熱い涙が伝い流れていく。 「やっぱり泣いてた……」 「やっ、見ないで。泣いてなんか……!」  止められなくなった涙を隠そうとすると、背後から一瞬ためらうような気配を感じた。だが、それでも直人の腕は緩む様子はなく、いっそうしっかりと抱きしめられた。   「結、泣くのは悪いことじゃないよ。結が……、俺の顔を見たくないんだったらこのままでもいい。でも、涙の理由を俺は知りたい」  背中越しに伝わる、自分よりも少しだけ高く感じる体温も、耳に優しく響く声も心地良い。  向けられたこの全ての温もりを、自分は手放そうとしているのか。  そう思うと、拒絶反応を起こしたように、全身の細胞が震え立つ気がした。 「……っ、いやだ!」  思わず口をついて出た言葉に、自分自身でも耳を疑った。  同じく結の言葉に不意をつかれたのか、直人の腕が少し緩んだ。 「あ……その、違うんだ」 「結?」  伺うような直人の声に、結は思い切って直人の方に向きなおった。  涙も拭わずに見上げた先には、眉を少し下げ心配そうにこちらを見つめる恋人の瞳があった。 「直人さん……俺、やっぱり直人さんのこと思い出になんてできないっ。自分では整理したつもりだったし、諦められるって思ってたけど、俺、おれ……できない」  溢れ続ける涙に声を震わせながら、直人に想いを伝えようとするが、上手く説明できない。  そんな自分がもどかしくて、きゅっと唇を噛み締めていると、涙で濡れた頬ごと大きくて暖かい手に包まれた。  何も言わないまま、彼の指が涙を拭って、離れる。かと思うと手を引かれ、今度は正面から抱きしめられた。  まるでパズルのピースがはまるようにすっぽりと、直人の胸に身を預ける。 「結、落ち着いてからでいいから順番に話してくれる? なぜ結は俺のことを整理したり、諦めたり、思い出にしようとしたの?」  とん、とんと、小さな子をあやすように背中に当てられた手がリズムを奏でる。それが直人の柔らかで低い声と相まって、不思議と安心できた。  

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