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第10話 親密な距離
いつも通り出社すると、ホワイトボードに滝沢は午後から出社と記されていた。
フレックス制なので、徹夜明けなどにはよくあることだ。
木原は少しほっとしていた。
いきなり滝沢と顔を合わせて平常心でいられる自信がなかったので、少しでも心の準備をしたかった。
仕事に打ち込んでいると、少しずつ気持ちは日常へと戻っていった。
滝沢は出社してきて鞄をデスクに置くと、いきなり木原のところへやってきた。
「和泉、今忙しいか?」
「な、なんですか……いきなり」
社内でいきなり名前で呼ばれて、木原は仰天した。
滝沢の声は大きいので、数人の社員が顔を上げて注目している。
昨日の晩木原が滝沢のチームのプログラムの手伝いをしていたことを滝沢のチームは知っているが、木原のチームは知らないのだ。
日頃ライバルだと思われている滝沢がいきなりそんな呼び方をすれば驚くのも無理はない。
「さっそく打ち合わせしようぜ? 昨日約束しただろ、うちのプログラム班の面倒見てくれる話」
「ちょ、ちょっと滝沢さん、打ち合わせなら会議室へ行きましょう」
これ以上滝沢にしゃべらせると何を言い出すかわからないので、とりあえず木原はあわてて隣の会議室へ滝沢を引っ張って行った。
木原のチームの数人は訝しげに注目している。
特に石田の視線が鋭かった。
「和泉、身体大丈夫か?」
滝沢は会議室で二人になった途端、バーで飲んでいるような口調で話しかけてくる。
木原は険しい表情でため息をついた。
「滝沢さん、どういうつもりなんですか。社内でそんな呼び方しないでください」
「いいじゃないか、うちのチームの連中は俺と和泉がもっと仲良くなってくれたらいいと思ってるぜ。昨日のことで和泉はヒーローだからな」
「チーム同士が協力するのは悪いことではありません。だけど、必要以上に馴れ馴れしくしないでください。僕は社内に敵を作りたくありませんから」
「俺とお前が仲良くなると敵を作ることになるのか? そんなはずないだろう」
「僕は必要以上に目立ちたくないんです。お願いですから社内でその呼び方はやめてください」
「んじゃあ、社内じゃなきゃいいんだな?」
「社内じゃなきゃって……」
いったい滝沢はどういうつもりなのか。
社外で会う用事などないだろう、と木原は思う。
昨日のような偶然はめったにないのだ。
二年間席を並べていて初めてだったぐらいなのだから。
「なあ、それならまた社外で会ってくれるだろ? 会ってくれるなら社内では呼ばない」
「一晩だけ、と言ったのは滝沢さんでしょう。僕を脅してるんですか」
「たまに飲みに行くぐらいはいいだろう? 春人くんの店にもまた一緒に行けばいいじゃないか。これからも毎日顔を合わせるんだから、仲良くやろうぜ」
滝沢は誰も見ていないのをいいことに、木原の肩に手を回してくる。
「滝沢さん! 仕事とプライベートはきっちり分けてください。でないと協力しませんよ」
木原が語気を強めると、さすがに滝沢は手を引っ込めた。
「分かった、分かったからまた食事行こうぜ。今日は仕事終わるの遅いのか?」
「滝沢さん……」
滝沢だってほとんど寝ていないはずだ。
木原は睡眠不足の上、歩くのもだるいぐらい疲れている。
いくらなんでも今日ぐらいは早く帰って身体を休めたい。
「さすがに今日は寝かせてください。身体がもたない」
「そうだな、和泉は俺より疲れてるよな。じゃあ、明日はどうだ?」
「滝沢チームは今忙しいんじゃないんですか。そんな余裕があるなら僕の助けは必要ないでしょう」
「それとこれとは別だ。俺にだって安らぎの時間は必要だろう?」
安らぎの時間、という滝沢らしくない台詞に、怒っていた木原も思わず口元を緩めてしまった。
どういうつもりだか分からないが、たまに食事に行くぐらいなら問題ないだろう。
一緒に食事をするぐらいで安らいでもらえるのなら、それは木原にとっても嬉しいことだ。
元の関係に戻ろうと気負っていた自分が馬鹿みたいだ、と木原は苦笑してしまう。
結局自分は滝沢が好きなのだから、強くは抵抗できないのだ。
「分かりました。来週のプレゼンが終わったらつき合いますよ。それまでは頑張って仕事してください」
「サンキュー和泉! それを楽しみに頑張るか」
「社内では呼ばないと言ったでしょう!」
「いいじゃないか、二人の時ぐらい。人がいる時は気をつけるよ」
二人の時、という滝沢の言葉に木原は思わず顔を赤らめてしまった。
明らかに今までと違った親密な空気が流れている。
それを人に悟られないようにするには、今まで以上に気をつけなければと自分に言い聞かせた。
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