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第3話

 なおくん、家庭教師ってどう思う? 学校や塾と違って一対一だし、なおくんのペースに合わせて教えてくれるからいいんじゃないかしら。  母親にそう言われて了承したものの、正直、いったいどんなヤツが来るんだろうと緊張していた。嫌な奴だったらどうしようっていう不安と、すげえ美人な女の人だったらどうしようっていう期待。  先生は、そのどっちもに反していた。嫌な奴でもないし、女の人でもない。家庭教師っていうから生真面目そうな優等生タイプが来るのかと思ってたら全然違ったし、そんなに怖くもなさそうだし、僕は一人っ子だから兄ちゃんがいたらこんな感じなのかな、と嬉しくさえあった。  でも。 「勉強なんてさ、やりたくなきゃやらなくていいと思うんだけどな」  初日の授業開始直前、勉強机の前に並んで座った先生はそんなことを言った。 「え、いいの? いや、だめでしょ。ていうか、先生がそんなこと言うの?」  驚いた僕を、先生は横目で見た。 「だっておまえ、別に勉強したくねえだろ。やれって言われてるからやってんだろ」 「……まあ、やらなくていいならしたくないけど」 「嫌々やってるとさあ、全然身につかねえんだよ。頭に入ってもすぐ出ていく。そんなんで受験とか絶対ムリだな」 「……そういうこと、先生が言う? それをなんとかするのが先生の仕事なんじゃないの?」 「仕事なあ。俺バイトだけど。まあとりあえず、やることはやるよ。つまりさ、結果はおまえしだいってことだ。まず教科書見せろ。どこまで進んでんだよ」  机の前に立てて置いてある教科書を勝手に抜き出し始めた先生の横顔を、僕は唖然と見た。  なんか全然、先生って感じじゃない。なんか適当そうだし、大丈夫なんだろうか。そんな不安が渦巻いたけれど、でもそれは意外とすぐに吹き払われた。  先生は教え方がとてもうまかった。学校の先生よりも塾の先生よりも、わかりやすかった。  僕は勉強が、どちらかと言えば先生の言ったようにまったく好きではなくて、そもそもやる気なんかちっともなかったけれど、今まで解けなかった問題が解ける、しかもたやすく解ける、というのは、快感だった。  気持ちいい。おれって結構すごいじゃん。なんて調子に乗る。  調子に乗っても先生は怒らなかった。やるじゃねえか、ってにやりとする。だから嬉しくなってまた、問題に向かう。そんな感じで、僕は少しずつ勉強が面白くなっていった。  とはいっても、それは先生に教わっているときだけだ。他の時は楽しくもなんともない。学校でも塾でも、ただ時間が過ぎるのをぼんやり待っているだけ。先生のおかげで授業の理解度はずいぶん上がっていたけれど、先生に教わるときほど熱心にはなれなかった。その分、先生の来る日は待ち遠しかった。  僕はよく、勉強の合間に先生に質問をした。たいしたことは訊いていない。ちょっとしたことを、思いついたそばからって感じで。  パーマかけてんの? 医大ってそんな髪の色でいいの? 兄弟はいるの? 一人暮らししてんの? 好きなマンガある?  何でもいいから、先生のことが知りたかった。先生がどういう人なのか、知りたかった。先生は何でも訊いたそばから簡潔に答えてくれた。  地毛。髪の色とか自由。兄貴と姉貴が一人ずつ。一人暮らし。好きなマンガはあるけど、十八禁だから教えない。  勉強の合間だからもちろん、長話はしない。じゃあ次、この例題の説明してみろ。なんて言って打ち切られてしまう。ほどよく優しくて、ほどよくそっけない。兄ちゃんっていうよりやっぱり先生で、でもちょっと友だちみたいで、先生の隣に座っているのはひどく居心地がよかった。  癖なのか、先生は小テストを採点する間、肘をついた片方の手で前髪をかき上げたままでいる。普段はあらわにならない額と薄い眉。思わずそっと盗み見る。ときどき先生が両腕を上げて大きく伸びをする。そらされた喉元がやけに白くて、どきっとする。  何だろう、と思っていた。  変だなあ、とは思っていた。  何で僕はこんなに、先生のことが気になるんだろう、とは確かに、思っていたのだ。

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