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第6話

 中学三年生の夏休みは、残念ながら休みなんて呼べるもんじゃない。  僕の場合は初日から塾の夏期講習。しかもそれは普段とは違う塾のものだから、昼と夜に別の場所に行き、間に先生の授業が入る。世の受験生もみな、こんなに勉強してるんだろうか。  でも僕は苦にならない。  なにしろ、僕の頭じゃこれくらい勉強しないと成績が上がらない。そして成績を上げないことには先生との仲も深まらない。  先生は完全に僕のことを子ども扱いしている。もちろん、はなから相手にされていない。なら、それを逆手にとって攻めるしかない。無駄かもしれないけど、こうなったら意地みたいなもんだ。どうせ恋愛相手としてみてくれないんなら、思い出だけでも無理やり作ってやる。  僕は受験生らしく、灰色の夏休みを過ごした。海にも山にも街にも行かず、ほとんど友達と遊ばずに勉学に励んだ。両親は僕の熱心さに驚き、けれども彼らも受験生を子に持つのは初めての経験なので、ああこういうもんなのねと納得していた。その熱意の原動力が、純粋に受験のためなのだと信じている。 「まさか、なおくんがここまでやる気になるなんてねえ」  夕食の席で、母親がしみじみと言った。確かに以前の僕は勉強なんてまったく興味がなく、高校なんてどこにでも入れればいいと思ってた。心配した母親が家庭教師を手配したと言ったときも、露骨に不満を表した。本当にやる気がなかったのだ。僕は急いで吹きこんでおく。 「先生のおかげだよ」 「先生って、三上くんのこと?」 「そう。先生が教えてくれてるおかげで、やる気になったんだ。がんばらなくちゃって。だから、お礼言っといてよ」 「へえ。やっぱり、年の近い人だと違うのかしらね。家庭教師頼んで良かったわー。なにより、なおくんに向上心が出てくれて嬉しいわ。前はどうでもいいって感じだったもの。やればできるのよ」 「そうだよ、先生が来なかったら、おれたぶんこんなに勉強してなかった」 「まあ。それじゃ今度、夕食でも食べてってもらいましょうか」 「うん!」  母親の粋な提案に、僕はイスから飛び上がりそうになった。 「そうしてよ、それがいい」  少しでも長く先生といられる。僕は母親に心の中で感謝しながら箸を動かした。先生の好きなものを聞いておかないといけない。  実力テストの結果は、答案用紙じゃなく一人ずつに明細票みたいなものが手渡される。点数以外に、平均点や偏差値、区域別、学年内、クラス内での順位が示されている。僕は息をのんでそれを開いた。燦然(さんぜん)と輝く五の数字。ギリギリだ。驚いた。  手渡されるとき担任が声をかけてくれた。よくやったな。自分でも、よくやったと思う。  母親の言ったとおりかもしれない。やればできるのだ。みんなきっと。でも、みんながんばれないだけだ。僕だって、一人じゃがんばれなかった。目標が受験だけなんていうのは、まだ将来の目的のない十五歳の子どもには原動力に乏しい。そこには何かしら欲がないとがんばれない。希望とか見栄とかプレッシャーとか。僕の場合一途な恋心だったけど。  先生は目を丸くして結果を見た。 「……うそだろ」 「すげえだろ」 「……すげえ。おまえ、去年何位だった」 「えーっと、たぶん、三十番より下」 「クラス何人」 「四十人」 「実力テストって、実力が出んだろ。範囲とかねえから。おまえ、頭良くなったなー」 「がんばったもん」 「もともと良かったんだな。普通、こんなに上がらないぜ。がんばっても」 「でもおれも、今回はムリかと思った」 「今回は、って?」 「だから、……もしかしてまた忘れてんの?」 「何を」 「約束、したじゃんか」 「……何だっけ」 「一日、遊びに行くって」 「ああ!」  先生は、ごまかそうとしたわけでもなく本当にはっとして、僕を指差した。 「したした。そうだったな。え、もしかしておまえ、それ目当てにがんばったの?」 「当たり前じゃん」 「マジで? すげえな」 「だから、すごいんだって」 「っていうか、俺そんなに愛されてんの?」  先生が冗談で言ってるぶん、僕は気恥ずかしかった。だから最初からそう言ってるだろ。 「約束だからな、守ってよ」 「ああ。わかったわかった。おまえのがんばりに(こた)えて、どこでも連れてってやるよ。どこがいい」 「先生の家!」  僕の言葉に、先生は怪訝そうな顔をした。 「なんで。おまえ、俺を襲う気?」 「そんなことしないよ、どこに住んでんのかなって思っただけ」  襲いたい気持ちは山々だけど。 「どこ、って、こないだの飯屋の近くだよ。別に面白いもんないぜ。帰っても寝るだけのところだし。他のとこにしろよ」 「じゃ、大学」 「なんで」 「先生がどんなとこで勉強してるか見てみたいから」 「面倒だなー」 「今どこでもいいって言ったじゃん」 「わかったよ。しょうがねえな」 「じゃ、次の日曜」 「はいはい」  僕はノートを開いた。もちろん、その日の授業なんて一行ぽっちも頭に入らなかったけれど。

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