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第8話

 中間テストを返された日、他の先生は何も言わなかったのに、担任である国語教師だけは僕に一言付け加えた。 「どうした、おまえ。調子良かったのに。受験勉強疲れたのか?」  そう。僕のテスト結果は、誰が見てもわかるように下がっていた。両親は、あまりテストの点を気にしたりはしない。わざわざ見せろといったりもしない。だから僕は、いつものように調子よく部屋へ顔を出した先生にだけ、言い訳をした。 「あのさ、たぶんこれが実力だから」  先生へのあてつけとか、気をひこうと思ってわざと勉強しなかったとか思われるのが嫌だったからだ。 「……実力って、こないだのが実力だろ?」 「こないだのは、がんばった実力だよ。今回は、がんばらずに普通にやった実力」 「なんだよ、それ。じゃ、がんばればいいじゃんか」 「だって、がんばるのって疲れるんだよ」 「何言ってんだ、受験生が」  そう。がんばるのは本当に骨が折れる。  四六時中肩肘はって、一生懸命勉強して、蓄えた知識や公式や単語を離すまいとやっきになって、ずっと必死でいなければならない。それが普通というやつらなら平気なんだろうけど、僕の場合はとってつけたような日常だ。やりなれないことを続けるのにはそれなりに気力と体力がいる。その気力が萎えてしまっている以上、点が落ちるのはしようがない。 「なあ、頼むぜ。せっかく時給上がったのにさ、これでおまえの成績が落ちたら、前より悪いじゃん。いったん上がったのが下がるってさ。やばいよ」 「悪いとは思うけどさ、やっぱおれの実力ってこんなもんなんだよ」 「どうしたんだよおまえ。こないだまであんなにやる気だったじゃん。なんか嫌なことでもあったのか?」 「別に。やる気なくなっただけだよ。おれがどんなにがんばったところでさ、先生はおれのことなんか眼中にないし。なんか先生を喜ばせるだけでおれには得なことないし」 「あれ、おまえ、俺のこと好きなんじゃないの?」 「……それが何」  しごく当然のように言う先生の口調に、僕はむっとした。 「ふつう、好きな相手が喜ぶのって嬉しいもんじゃないの? おまえの成績が上がったら俺喜ぶぜ? それじゃだめなわけ?」 「……最初は嬉しかったけど、なんか疲れたよ。報われないって感じ」 「そんなこと言うなよお」  先生はイスに片膝を立てて、机の上に頬杖をついた。僕を見上げる形になる。上目遣いの表情は、甘えられてるみたいでどきっとする。でも、ごまかされちゃいけない。これはたぶん、先生の手なのだ。案の定、先生は続けて言った。 「な、またどっか連れてってやるからさ。やる気だせよ。どこがいい? 映画でも行くか?」  だだをこねる子供をなだめるような声だ。先生は僕を、子供にしか見ていない。遊んでもらいたがっている子供。  僕は、先生を困らせたくなった。  僕を手玉にとって調子にのってる先生の、戸惑う顔を見たい。 「ねえ、じゃあさ、どれくらいがんばったらいい?」 「どれくらい?」 「うん。百点とったら? それとも、期末テストで五番以内?」 「なんだよそれ」 「先生の言う条件を目指して、おれがんばることにするよ。そのかわり、目標達成したらおれのお願いきいてよ」 「……いいけど、なんだよ」 「先に条件言ってよ。それによって変わるからさ」 「どういう意味だ、それ」 「あんまり難しい条件には、それ相応のご褒美が必要じゃない?」  先生は、ふうん、という顔をして、考える仕草をした。口元を手で隠して、天井を見上げる。人差し指と中指の間から、わずかに開いた唇が見えた。  煙草を吸ってるみたいだ、と思う。今にもその手が外れて、細長い煙が吐き出されそうだ。 「じゃ、学年で十番」  唐突に、先生は強烈な条件を提示する。 「えーッ」  僕の抗議に、先生はにやりと笑う。 「目標は高いほうがいいだろ。クラスで五番になれるんだったら、学年で十番にもいけるって」 「本気でそう思ってる?」 「思ってるともさ。自分の生徒の実力くらいわかってるぜ、俺は」  そう言って笑う先生の顔には、できるもんならやってみな、と書いてある。  それじゃ、と、僕は考えていたなかでも一番、先生を動揺させそうな褒美に決めた。 「わかった。じゃ、先生も約束してよ」 「褒美か? なんだよ。言ってみな」 「もしおれが学年で十番以内になったら」  先生は、愉快そうに僕を見ている。あきらかにふざけてるその表情が、憎たらしい。 「キスしていい?」  さらりと言ったつもりが、語尾がわずかに震えた。  それが先生に気づかれてないといいのだけど。  いつも、僕の真横のイスに座って、僕の手元のノートやプリントを覗きこむように顔を近づける先生の口元が、気になってしょうがなかった。  先生はつき合っている彼女と、やっぱりキスとかするんだろうか。するんだろうな、なんて考えていたら、その薄い形のよい唇に僕も触れたくなって、でも僕が触れることなんてあり得ないという現実に、打ちのめされていた。だから、めずらしく先生があっけにとられたように目を見開いて、その顔を見られただけでも、僕は幾分すっとした。それだけで満足だった。 「どうする?」  攻撃的な僕の問いに、先生は一瞬息をつまらせたけれど、引くに引けなかったのか、おう、とうなずいた。 「いいぜ。やれるもんならやってみろよ。学年で十番だぜ」 「……え、マジ?」 「なんだよ。おまえが言ったんだろ。そんかわり、もし十番以内にならなかったら、今後なんの条件もナシだ。おまえは全力でやる。いいか?」 「それ、先生のほうが得じゃない?」 「ばーか。成績が上がったらおまえの方が得だろうが」 「わかった。じゃ、それでいい」 「よし」  驚いた。まさか、了承するとは思わなかった。  僕はまたしても、俄然やる気になった。だめでもともとだ。なんにせよ、目標があるのはいい。先日までのだらだらとした空気がいっぺんに変わった。  僕は万が一、でもまさか、いや、うまくいけば、と、天国と地獄の両方を想像しながら、怒涛の二ヶ月を過ごすことになったのだった。

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