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第10話

「……マジ?」  竹藤と同じ反応を、まったく違うテンションで先生はした。呆然としている。 「すごいよな、おれ」  いつもの勉強机の前で、並んで座った先生の隣で、僕は飄々と言ってやった。  さあ、どうする先生。 「……いや、ほんとすごいわ、おまえ」 「うん。おれもそう思う」 「これ、おばさんとかに見せた?」 「まだ。先に先生に見せてあげようと思ってさ」 「……そりゃまた丁寧なことで」  僕は横目で先生の顔を見た。いつも余裕綽々(しゃくしゃく)の先生が、狼狽するさまを見られたのは嬉しい。もっと、先生のいろんな表情が見たい。僕の前じゃ見せないような、本当の顔。 「……ま、しょうがないか」 「え?」 「約束だもんな」  先生は、意を決したように振り向いた。あきらめたようにため息をつく。 「いいぜ」 「……え?」  先生は相変わらずイスに片膝を立てて、背をまるめ、抱えるようにした。 「いいって、何」 「何って、おまえ、自分がした約束忘れてんの? げ、言わなきゃよかったかな」 「忘れてない。忘れるわけないじゃん」 「じゃ、なんだよその反応」 「だって、ほんとにやらしてくれるとは思わなかった」 「俺は一回口にしたことは守る」 「マジで?」 「しょうがねえだろ、おまえは条件クリアしたんだからよ。しかも、二番も上だ。文句のつけようがねえよ」  先生は視線をそらせ、すねたような表情を浮かべた。ああ、ほんとに本気なんだ。  先生の顔まで、距離はさほどない。  もともと授業のときはすぐそばまでイスを近づけている。身を乗り出せば、すぐだ。  それでも僕は、わずかに腰を浮かせた。安定を良くしてから、顔をよせる。  先生は一瞬僕を見上げてから、唇が触れる間際に目を閉じた。  僕は、初キスはすでにすませてある。去年一つ上の先輩(女だ)とつきあってたのだ。先輩が卒業してから自然消滅したけれど、キスは三回くらいした。残念ながら、それ以上へは進めなかったけれど。  だから、激しく緊張したのは慣れてないせいじゃなかった。相手が先生だからだ。  今になって思うと、去年つきあった先輩のことはそれほど好きなわけじゃなかった。だって、こんなに胸が高鳴りはしなかった。体中が心臓になったみたいに、ドキドキが相手に伝わるんじゃないかと思ったり、触れたところの体温が驚くほど熱く感じたりしなかった。  唇が、先生の唇に触れている。先生とキスをしている。嘘みたいだ。  ずっとそうしていたかった。いつまでしていていいのかわからなかった。でもそうしているうちに、先生がそっと体を引いた。 「……いつまでやってんだよ」  息がかかるくらいの距離で、先生が遠慮がちにつぶやく。そこには、嫌悪も侮蔑も含まれていなかった。控えめな文句だけだ。 「……サイコー」  僕は素直にそう言った。天にも昇る心地とはまさにこんな感じだろう。 「ったく。じゃ、数学から始めるぞ」 「待ってよ、もうちょっと余韻を楽しませてよ。せっかくなんだから」 「なんだよ余韻って」  先生は眉をしかめたけれど、そんなことおかまいなしだ。  すごい。先生とキスをした。その事実だけで、僕は充分すぎるほど舞い上がれるのだ。 「ね、先生」  僕の呼びかけに、先生は不愉快そうに顔を向けた。ふてくされた顔も最高にいい。 「んー?」 「あのさ、次の褒美もこれがいい」 「……これ」 「ね、冬休み明けにテストあるんだよ。それでさ。いいだろ」 「別に、いいけど」 「え、いいの?」 「自分で聞いといて何言ってんだよ、わけわかんねえやつだなー。別にいいよ、もう。一回でも二回でもおんなじだろ」 「ほんと? マジほんとだな? やった、すげ、おれがんばるから」 「おう、好きなだけがんばってくれよ」  あきれたように肩をすくめる先生の隣で、僕はガッツポーズをした。  一回でも二回でもおんなじなら、三回でも四回でもできるってことだ。  僕はとにかく、勉強に夢中になったのだった。

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