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第10話 甘い血

 離れでは、ノウェルの母上が日課の薔薇摘みをしていた。  ノウェルの母であるローズは、公には知られていないが吸血鬼の末裔である。つまり、本人は知らないが、 ノウェルもその血を引いている。本家ではそういう、特殊な事情も管理しなければならない。 「ローズ様、ご機嫌麗しゅう」 「あら、ヌェーヴェル。ごきげんよう」 「お身体の具合は如何ですか?」 「ええ、お陰様で」  ローズには、数年前から治験的に人工血液を投与している。ヴァールス家が血液提供をしている製薬会社との共同研究、言わば実験の被検体である。  だから、こうして折を見て様子伺いに来るのが俺の仕事なのだ。ノウェルに見つからないようにするのが面倒だから、本音を言えば来たくない。アイツは俺の匂いを嗅ぎ分けるのか、必ずと言っていいほど出くわすのだ。  我がヴァールス家は、元より吸血鬼に好まれる体質らしい。故に、大昔から秘密裏に吸血鬼と繋がりがあったのだ。元来、吸血鬼との関わりは本家しか持たないのだが、稀にローズのように正体を隠しヴァールスの血筋と結ばれることがある。そういった場合に支援や管理をするのも本家の役割なのだ。  俺の場合、アイツらとの関係はしくじっただけの話で、本家の面汚しもいいところだと思っている。本当に情けないが、今更どうしようもない。今は、できる仕事をこなしていくしかないのだ。  それにローズの話はいつだって興味深い。人も人外も関わりなく、学ぶ事が多いのは有難い事だ。 「日々改良を重ねているのですが、味や成分など、本物の血液との差異は埋まってきていますか?」 「そうですね。ほとんど差異はないのですが、ただ1つだけ、どうしようもないものがありますの。とても甘い“恋の成分”と呼ばれるものです」 「それはまた····恋とは随分と厄介ですね」 「ふふふ、そうですね。でもね、これが吸血鬼には何よりものスパイスなのです」 「はぁ····そうですか。これは幾ら研究を重ねても難しい課題になりそうですね」  俺は持っていたペンで頭を搔いた。困り顔の俺を揶揄(からか)いたくなったのか、ローズは意地の悪い微笑みを見せて言った。 「ねぇ、時にヌェーヴェル。あなた、血を吸われていますね?」 「····っ!?」 「驚く事はありません。私だからわかるんです。快楽に溺れてゆく、酷く甘い匂いがだだ漏れてますもの。人間には気づかれないのでしょうが、お気をつけなさいね。特に、まだ自覚のない者には」 「······ふっ、ご忠告感謝します。それでは」  驚いた。俺から甘い匂い? はっ、意味がわからない! これだから吸血鬼は好かん。  待てよ。という事はノウェルも気づいていた? 否、奴は自分が吸血鬼の血縁とは知らないはず。自覚のない者とはノウェルの事なのか?  とにかく、面倒事にならないよう気をつけなくちゃな。  本館の方へ戻ると、ノウェルが駆け寄ってきた。そして、わざわざ俺の手を握り瞳を輝かせやがる。 「ヌェーヴェル!」 「またお前か、ノウェル。さっき会っただろうが」 「君には何度だって会いたいのさ。母様には会えたのかい?」 「ああ、用も済んだし帰るよ」 「もう帰ってしまうのかい。君はいつも忙しそうにしているね。そうだ、この薔薇を君に」 「そういうのは女にくれてやれ······ってこれはお母上の薔薇か?」 「そうだよ。とても甘い香りがするだろう? そう言えば、君からも同じような香りがするね。ああ、ヌェーヴェルはまさに“薔薇の君”だね。我が家はこの薔薇で埋め尽くされているから慣れてしまったのかな。今の今まで気づかなかったよ」  近い。とにかく近い。首筋を嗅がれた時はヒヤッとした。アイツらに(かぶ)りつかれる時のような感覚を覚え、身体が勝手に硬直してしまった。  それよりも、これは偶然なのか? いや違う。偶然など、この世に存在しない。全ては必然だ。  ノウェルの言う、俺から発している甘い香りと、この薔薇の香りが同じだとするのなら、吸血行為と関係があるのではないか。俺たちのそれが、恋だと戯れ言を()かすつもりはないが、全くの無関係という事もないだろう。  そうするとだ。もしやこの薔薇、ローズが言っていた『恋の成分』とやらが含まれているのか? これは一体どういうことだ。くそっ、考えがまとまらない。 「ノウェル、この薔薇は···· 。お母上はいつからこの薔薇を?」 「そうだなぁ····確か10年くらい前かな。父様が研究に明け暮れて、家に帰らなくなってからだよ」 「······もしかして! すまんノウェル、もう一度お母上に会ってくる」 「え、どうしたんだい? ヌェーヴェル!」  俺はノウェルの言葉を背に、離れへと駆け戻った。俺の読みが正しければ、遂に完璧な人工血液が完成するかもしれない。  そうすれば、血に飢えている生き残りの吸血鬼共から、人間を守る事ができる。 ──バンッ  離れの扉を勢いよく開け、俺はノウェルに貰った薔薇を手に、ローズに駆け寄った。 「ローズ様、“恋の成分”がこの薔薇に!?」 「まぁまぁ、どうしてわかってしまったのかしら」  俺は、ノウェルとの出来事を元に立てた仮説を捲し立てた。そして、それは限りなく真実に近いものであると、ローズが語ってくれた。  ローズはノウェルの父・ウィルと恋に落ち結ばれた。ローズが吸血鬼である事がわかっても、その想いは変わらなかった。  ノウェルが小さい頃は、家族3人で仲睦まじく暮らしていた。しかし、ローズが病で倒れてからというもの、医学者であったウィルは研究に明け暮れた。  病を治す為には、完璧な人工血液が必要だった。一刻も早く完成させる為、ウィルは研究室に籠ることが増え、家に帰る間も惜しんだ。  しかし、それが何よりも彼女を苦しめる事となった。ローズは、ひたすらに寂しかったのだ。  寂しさを紛らわせる為、ローズは薔薇を育て始めた。結婚する前、ウィルが会う度に贈っていた思い出の花を。名と瞳の色と同じ薔薇(ローズ)を。  そして、ローズが丹精込めて育てた薔薇には、他とは決定的な違いがあった。それが原因で、この薔薇は特有の匂いを放っていたのだ。その匂いは、吸血鬼にしか嗅ぎ取れないもので、人間の俺やウィルには知り得ないものだった。 「彼の血液をね、薔薇に吸わせてみたの。なんとなく、本当にただ、なんとなく····。主人から採取していた血液を飲んで、グラスに残った数滴を水に混ぜたの。薔薇(はな)に想いを馳せてしまったのかしらね。薔薇を彼だと思って、大切に育てたかったのかもしれないわ」  と、ローズは言った。どういう原理なのかはわからないが、水やりの時にウィルの血液を少し垂らした水をやると、甘い“恋の成分”の匂いがするのだそうだ。何はともあれ、これで研究が飛躍的に進展する筈だ。  ローズのそれは病と言っても、吸血を我慢しすぎた所為で摂食障害を起こしているだけなのだ。彼女が、ウィルを守る為に食事を拒んだ結果だ。  分家の人間の血液生成能力は、本家に比べればかなり劣る。食事として吸血を続ければ、ウィルの体には相当な負担がかかる。従来ならば、本家の血筋の者を充てがうのだが、ローズが頑なにウィル以外の人間の血は吸わないと言い張ったのだ。  それならば作ろうと相成ったわけだ。ローズの病は、血液を充分に摂れば治るものらしい。  始まりが愛ゆえの不幸だったかもしれない。しかし、それを救うのも、愛だ恋だの戯れ言だった。これが愛の成せる技、もしくは奇跡とでも呼ぶべきものなのだろうか。  俺はただ、こんな奇跡が成り立つ事実を証明したい。その一心で、こんな不条理だと思える事にだって真摯に向き合う。 「これで研究が完成するかもしれません。ウィルが帰り、早く昔のように家族揃って暮らせる日が来るよう、力を尽くします」 「あぁ、ありがとう。ありがとう、ヌェーヴェル。本当にありがとう」  ローズは俺の手を握り、涙を零しながら礼を言い続けた。ローズを宥め、俺は研究所へと馬車を急がせた。  研究室では、今日もウィルが試行錯誤を繰り返していた。 「ウィル、この薔薇を使ってみてくれませんか」 「やぁ、ヌェーヴェル。ん? その薔薇はローズのかい?」 「えぇ。先程、実に興味深い話を聞いたのです」  俺は事の経緯を話した。ウィルは涙ながらに感謝の言葉を零した。 「早速この薔薇の成分を調べ、研究に役立たせてみせるよ!」 「完成を祈っています。では、俺はこれで」 「ああ、ヌェーヴェル····。本当にありがとう」  ウィルは俺の手を固く握り、何度も感謝を口にした。その姿はローズのそれと同じ、相手を想う心からの言葉が溢れ出たのだろう。  程なくして人工血液は完成し、ローズの病は完治した。ウィルは自宅に戻り、再び家族3人揃って暮らしている。  ウィルは、この完璧な人工血液の完成を機に、医学界に発表した。そもそも、人工血液自体はとうに完成していたのだ。人間に使う為の物としては。  ウィルはただ、ローズが満足できる血液を作りたいと思い、その為だけに研究を続けていた。ついでに、他の吸血鬼にも使えれば一石二鳥だと思い、俺は研究を続ける事を許可した。  それの発表は衝撃を与え、その後の医療を大きく躍進させた。もちろん、ウィルの血液が人体に与える影響は計り知れないので抜いてある。それを知るのは俺とウィルだけだ。  後に、ウィルはこの研究で大きな賞を受賞し、分家の中でもとりわけ大きな財を得たのだった。

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