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第三話

「はあ、はあ、はあ」 茶倉練は十江山の頂上を目指していた。左肩にはスポーツバッグ、右手には紙袋。ハイブランドのスーツを着ていなければお上りさんに見える。 目の前には森林を刳り貫いた石段が延び、緑翠の木漏れ日が落ちている。 所々ひび割れた石段を踏み締め、絶えず伝い落ちる汗を拭い、遥か遠いゴールを睨む。 「まだ着かんのかい。前より長くなってへん?」 嵩む疲労に比例し愚痴が増える。何度目かわからぬ休憩を入れ、すっかりぬるまったペットボトルのお茶で渇きを癒す。 成願寺詣では数年ぶりだ。 前回前々回もやっぱり石段に苦しめられた。 せめてトレッキングシューズを履いてくるんだったと悔やめど遅く、靴擦れで足が痛む。 中敷きが蒸れて気持ち悪い。嵩張る手荷物の重みも無視できない、道中何度捨てて行こうか悩んだことか。 「あ゛~しんど。帰りたい」 鳥の囀りや虫の声も鬱陶しいだけで慰めにならない。キャップを嵌め直した際袖がめくれて手首が覗き、ブラックオニキスの数珠が陽射しを跳ね返す。 くすくす、くすくす。 くすくす、くすくす。 樹冠が日輪を濾して暈す空の下、葉擦れの音に紛れるようにかすか遠く、ともすれば近く、甲高い笑いが弾けて降り注ぐ。 「子供の笑い声……?」 胡乱げに目を眇めて枝葉を仰ぐ。気のせい?きっとそうだ、こんな山奥に子供がいるはずない。もとより麓の集落は過疎化が進み、若者の姿は全く見当たらなかった。 背広に畳んで入れたチラシの存在を思い出し、心が塞ぐ。 「もうひと踏ん張りや」 小さくひとりごち、スマホの待ち受けを見て元気をチャージする。 しばらく行くと巨大な山門が視界にせり上がり、堂々たる仁王立ちの山伏が迎えた。 「重畳、重畳」 豪放磊落に破顔し、片手を挙げる山伏にうんざりする。 「頂上とひっかけたダジャレかい、しょうもな。御託はいらんから迎えにこい」 「都会暮らしは足腰がなまっていかん。俺は毎日上り下りしてるぞ」 「野猿か」 山伏―煤祓|正《せい》が呵々と笑い、見渡す限り緑の眺望に顎をしゃくる。 「十江山は山伏の修行場。これもまた鍛錬の一環、俗世の煩悩を一ツ一ツ捨て去る行と心得よ」 「百八段以上あったけど」 「個々人の欲の数に対応してるわけ」 「これがホントの歩合制、て納得でけるかい」 「ほら頑張れもうすこし、あんよが上手あんよが上手」 手拍子で囃す山伏に青筋を立て、最後の数段を根性だけで這い上り、門に数センチ届かず力尽きる。 「よくやった。感動した」 「同情すんなら水をくれ。キンキンに冷えたヤツ」 正が両手を突き出しお茶目に催促する。 「|通行手形《お・く・の・か・み》」 眉根と口端がピクピク痙攣。 「ドタマかち割ったろか」 「手ぶらじゃ敷居跨がせないぜ」 茶倉は東京東村山の銘酒・屋守を持参していた。正がどうしても欲しいくれなきゃやだやだとメールを打って寄越したのだ。コイツがなけりゃ行きも少しは楽だった。 「宿泊費代わり。現金むしんないだけ良心的だろ」 露骨な舌打ちと共に紙袋を突き付ける。 「おほっ!」 いそいそ中を漁り、熨斗を巻いた名酒・|屋守《おくのかみ》に頬ずりする正。 「会いたかったぜ屋守~」 一升瓶に暑苦しく接吻する中年を冷ややかに睨み、スポーツバッグを足元に置いた茶倉がげんなりする。 「バリアフリーに配慮してエスカレーター付けるか麓に移転せえ」 「楽して上がったらずるだろずる」 「マニ車回すのはずるちゃうで」 「幸せは歩いて来ないだから歩いて行くんだぜって昭和の大歌手も唄ってんじゃん」 「平成生まれなんで」 「大前提として山寺は山にあんのがステータスだし?麓に移したらただの寺だし?」 「きっしょ、おっさんがいちいち語尾上げんなや。若もん受け狙とるんかい、寒いで」 「来る途中神社あったろ」 「神仏習合の精神で間借りさせてもろたらどないや」 「あっちは鎮守の社、こっちは天狗が開祖の古刹。ちゃんぽんしたら罰当たりじゃねえか」 「屁理屈よせ、アンタ山麓修験者やん」 山伏は三種に大別できる。山内修験者、山麓修験者、末派修験者がそれである。 このうち山麓修験者は妻帯修験者とも呼ばれ、肉食や妻帯を禁じる山内修験者と異なり、妻を娶り子をなし、法燈を世襲することが許されている。サラリーマンと兼業の者も多い。 成願寺の宗主・煤祓正も嘗ては会社勤めの傍ら修行に励む身だった。 「何年ぶりだ?仕事は順調か」 「がっぽがっぽ笑いが止まらん」 「世司さんとは会ってんのか」 茶倉がこの上なく嫌そうな顔をし、正は失言を悔やむ。 「ババアの近況なんぞ知らんしどうでもええ。胸糞悪い」 茶倉世司と孫の仲の悪さは界隈で有名だ。一時期は跡取りと見込まれたものの現在は独立し、都心にオフィスを構えている。 正の背後に突如として影がさし、白いかたまりを投擲。 「ぶっ!」 塩の洗礼にたまらずむせる。 「敷居を跨ぐんじゃねえ疫病神」 「おい玄、一応客人だぞ。力士じゃあるまいし出会い頭に塩撒くヤツがあるか、そもそもうちは寺、浄めの塩を用いるのは神道だ」 「邪道は承知。単なる嫌がらせだ」 男の名は煤祓玄。正の一人息子にして成願寺の正式な跡取りである。 口に入り込んだ塩をぺっぺっと吐き捨て、気取った手付きでスーツをはたき、落ち着き払って断言。 「二十三万七千」 「あ゛?」 「おどれが塩漬けにしたスーツの値段。弁償せい」 「サバ読んでんだろ絶対」 「書面で請求するで」 「山にアルマーニ着てくるアホの自業自得。メス熊の視線でも気にしてんの?」 「残念どっぱずれ。節穴には違いわからんか、コイツはフランコ・プリンツィバァリー、イタリアンスタンダードスーツの代名詞。万年革ジャンの勘違いバイカー崩れが、人様のファッションにケチ付けんな」 「虫よけに着てんだよ」 「ワックス臭いもんな、そら蚊かて寄ってこんわ」 「んだとこら」 「そこまで」 火花を散らす二人の間に割り込み、正ががりがり頭を掻く。 「いい年して喧嘩すんな、長え付き合いだろ」 「会いたなかった」 「俺のセリフだ」 茶倉練は煤祓玄の天敵だ。 逆も然り。 二人は十数年来の腐れ縁だった。

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