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第五話

矢場を離れてしばらくすると茶倉は回復し、憎まれ口を叩く。 「嫌いてゆうてへんかった?」 「親父の頼みだ」 「十五年前と同じやな。俺を背負うて布団に連れてった」 「まだ覚えてんのか。とっとと忘れろ」 「雑魚しかおらん、ホンマしょうもない見せもんやった」 「この野郎……」 稚児の戯は七日七晩執り行われた。 他の子たちが一人また一人と再起不能に陥り脱落していく中、最後に残ったのは練と玄の二人。 「乗り気じゃねえなら棄権すりゃよかったのに」 玄はハッキリ覚えている。山寺を逃げ回る子供たち。呪い呪われ呪い返し、最後の一人になるまで繰り返し―…… 「詐欺じゃねえか、あんなの」 当時の怒りと屈辱が沸々と甦り、渡り廊下を支える柱に練を押さえ込み、顔の横に手を突く。 茶倉は怯むでもなく玄を見上げ、囁く。 「負けたこと、まだ根に持っとるんか」 頭の中で赤い閃光が炸裂し、思いきり突き飛ばす。廊下に尻餅付いた茶倉は喉の奥で笑いを泡立て、言った。 「お生憎様」 「……化けもんでしかイけねー体のくせに」 茶倉練は化け物の苗床だ。祟り神に憑かれている。十五年前、共に生活していた頃、玄は目撃した。 隣の布団に寝ていた茶倉が、夜毎見えざる「何か」に犯され、悶え苦しむ痴態を。 玄が踵を返した後、柱に縋って立ち上がり宿坊へ向かいながら奥歯を噛む。 「好きでこんなんなったんちゃうわ、アホんだら」 翌日から修行が始まった。茶倉は宿坊に寝泊まりし、毎朝四時に起床する。 修験者が用いられる真言は生活に密着している。 「オン・バサラ・チシュタ・ウン」 布団から出てすぐ呟き、井戸端で沐浴をすます。 隅々まで身を浄めたのち袈裟と鈴懸に着替え、卸したての念珠を首に通す。 本堂へ繋がる渡り廊下の先では、朝餉の膳を持った正が待ち受けていた。 「似合ってるじゃないか」 「コスプレ感が否めん」 「勤行中は肌身離さず付けとけよ」 本堂に移り、向かい合わせで精進料理を食す。 「「オン・アミリテイ・ウン・ハッタ・ソワカ」」 甘露尊に祈りを捧げ箸をとる。 本日の献立は白飯に味噌汁、湯葉・麩・椎茸の炊き合わせ、こんにゃくとごぼうの和え物に青菜のおひたし。味付けは淡泊でいまいち物足りない。 「動物性たんぱく質恋しいわ」 「美食を戒め粗食を寿ぐのが精進料理の大義だぜ」 「朝は洋食派やねん」 「ブツクサ言うな」 箸の先で沢庵をひねくり回す。 「味は悪ないけど、薄い」 「明日の当番はお前な」 「は?」 朝食後、正に付いて山に赴く。 十江山には鬱蒼と木々が生い茂り、鳥が羽ばたいていた。正の背中を追って起伏に富む獣道を進む途中、なにげなく聞いてみる。 「倅はサボりかい」 「強制はしてねえよ」 「跡継ぎやろ」 「俺の代で畳むか迷ってる」 意外な発言に虚を突かれ、憎まれ口が遅れる。 「法燈絶やしたらじいさんが化けて出るで」 「加持祈祷で食ってける時代じゃねえだろ」 「物分かり良いな」 「悟りの境地ってヤツさ」 茶倉に背を向けたまま、岩に手を掛けひとりごちる。 「昔は継ぐ継がねえで大喧嘩やらかしたもんだが、女房くたばってからどうでもよくなっちまった」 正の妻・詩織は庭の掃き掃除中に倒れ、搬送が間に合わず息を引き取った。死因は脳卒中と聞いていた。 「お前の言うとおり、麓に住んでたら助かったかもな」 行く手を塞ぐ倒木を跳び越え、諦念を織り交ぜた笑みを刷く。辛気臭い空気を疎んで話題を変える。 「この下駄めっちゃ歩きにくい」 「体幹鍛えられるぞ」 「どこ行くねん」 「滝」 一本歯の下駄に難儀しながら歩いていた茶倉が表情を消す。 「腹から声出せ」 「やっとるわ!」 「肺活量の限界に挑め!」 山育ちの正は筋骨逞しく頑丈だ。五十路をこえても肉体は衰え知らず、飛沫が白く煙る滝壺で打たれても微動だにしない。茶倉はガチガチ歯の根を鳴らす。 「寒ッ……」 「禊で慣れてんだろ」 「朝シャン感覚で滝行すな蛮族」 「頭皮刺激で血行促進、これぞ山伏式滝壺マッサージの極意」 「寒水摩擦は人類に早すぎん?」 びしょ濡れの着物を張り付けくしゃみをする。 「サウナ入りたい……」 「そのへんぐるって走ってきたらあったまるぞ」 正が屈伸しながら提案。哀しいかな、山伏は脳筋だった。 「さぶいぼ出たわ」 上腕をしきりに擦り、震え慄く茶倉の背中を一瞥、薄衣が透かす傷痕に眉をひそめる。 「温泉湧いてへん?天然の。この際スーパー銭湯でも文句言わん」 「猿と混浴するか」 「アンタがまざたら見分け付かんな」 「自分で掘れ」 「ドクターフィッシュ放た足湯で勘弁したる」 「何それ?」 「角質食うねん」 「メダカじゃだめか」 「煮魚なるで」 お次は岩場。断崖の突起を掴んですいすい行く正に遅れること数メートル、茶倉がへっぴり腰でずり落ちていく。 「ジムでボルダリングやったのに」 「滑る方が得意みたいだな、青年」 崖の上に至った正が竹皮を開き、塩むすびをパク付きながら声援を飛ばす。 昼は手分けして薪を持ち寄り、壇を組んで火を焚いた。 「山火事大丈夫なん?」 「延焼には気を付けてる」 「さよか」 修験者は山中で護摩壇をする。茶倉も正に倣って経を唱え、火を絶やさぬように見張りをした。 「あかん、眼球乾く……目薬もっとる?」 「あるわけあるか」 正が心底あきれはてる。 「奥の沢に水湧いてっから目ん玉かっぽじって洗ってこい」 「おおきに」 一旦離脱して奥へ分け入り、清らかな湧き水で顔をすすぎ、手のひらにすくって飲む。 生き返った心地で顔を上げ、手拭いで雫を拭っている時、異様な遠吠えを聞いた。 「なんや」 空気の震えが水面に波紋を起こす。犬でも狼でもない「それ」は、間延びした声で啼いている。 声が響く方へ自然と体が動く。名伏し難い好奇心に駆られ、藪をかき分け進むうち、謎めいた気配がどんどん濃くなる。 「あははっ、待ってー」 場違いに無邪気な声が響き、靴を掠めて笹舟が過ぎゆく。

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