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第4話
一方帰宅の途についた有希はふわふわした気持ちだった。浮かれるほどまではなかったが……引き留められたのも嬉しかったけど、明日の誘いはもっと嬉しかった。
昨晩のキスは? 敬吾さん僕のことどう思っているの? 僕とは違って大人だからそういうことにも慣れている? もう考えるのはよそう。なるようになれだ。ふだん真面目で深く物事を考える有希だったがここは考えることを放棄した。それは敬吾に対して愛が芽生えはじめたからだが、有希はまだ気づいていなかった。
愛に対して驚くほど奥手だった。女性となら付き合ったことはあったし童貞でもなかったが、本物の愛は知らなかった。愛したことも、愛されたこともなかった。
本物の愛を知らない点では敬吾も同じだが、交際経験からの駆け引きめいた経験の違いなど二人は大人と子供ほどの違いがあった。そこがまた敬語が、有希に強く惹かれる所以でもあった。
翌日当直が明けた有希は、一度帰宅しシャワーを浴び着替えてから敬吾の家に行った。
「お疲れー、一旦帰ったの?」
「うん。シャワー浴びて着替えてきた」
「どうぞ上がって。忙しかったか? 眠くはないか?」
「そうでもなかった。仮眠取れたから大丈夫」
「繊細だけどそういうとこは図太いよね。ほめてるんだけど。そうじゃないと医者勤まんないでしょ」
「ははっそう。指導医からも言われてる。寝られるときに寝ておけと。どこでも寝られないと医者は勤まんないって」
「まあそうだね。でもどこでも寝ると襲われるからそこは注意しろよ。まあ病院は安全だと思うけど」
「まさか僕が襲われるなんてないよ。洗面所借りるね手洗ってくる」
全く無自覚なんだから……敬吾は苦笑した。『深海』も絶対に一人では行かないように言い聞かせておかないと危ないと思った。虎の群れに子猫が紛れるようなもんだ。絶対に食われる。一瞬で食われる。
「いい匂いがする」手を洗った有希が戻ってきた。
「朝飯って言うか十時過ぎてるからブランチだね。だからボリューム多めにした」
「うん。腹減ってるからありがたいな。今日は洋食なんだね美味しそうだ」
「ああうまいぞ。沢山食べろよ」
「いただきます」有希はミネラルウォーターを飲んだあとシーザーサラダから食べ始める。シャキシャキの野菜にクリーミーなドレッシング、カリカリのベーコンとクルトンが絡み合って絶妙だ。
次に食べたスクランブルエッグがまたトロトロで美味しいし、こんがり焼けたソーセージは一口噛むと肉汁が溢れほんとにうまい。有希は感嘆した。
「敬吾さんほんと料理上手だよね。どれも、これも最高に美味しいよ」
「有希はほめ上手だな。切ったり焼いたり手は掛けてないよ。あーでも夕飯はカレーを昨日から仕込んだんだ。一晩寝かせるとうまいから。明日は日勤だけど早めに食ってから帰ればいいだろ?」
「うん、それは大丈夫。でもカレー、凄いな。僕なんていつもレトルトばかりだよ。手作りのカレーなんて実家出て大学入ってから始めだよ」
「有希の実家のカレーってどんなの?」
「普通のだよ。ジャガイモとか人参が入ってな。あとたまねぎに肉は薄切りのだった。だからあんまり煮込んで作る感じじゃないと思う。だけど翌朝に食べる朝カレーがうまくてそれが楽しみだった。あれ寝かせるとうまいからなんだね」
「そうだよ。一晩置くとうまいんだよ」
話しが弾んでいるうちに食べ終えた。有希は後片付けを手伝うと言ったが敬吾が滑って怪我したら大変だからと言ってさせなかた。
「手は外科医の命だろ。大切にしろ」
過保護だなあとは思ったがそれを言われたら有希も従わざるを得なかった。
「ドライブにでも行かないか」
後片付けを終わった敬吾が誘った。
「うんいいね、どこに行くの?」
「どこか行きたいところはあるか?」
「うーんそうだなあ……海かな。海が見たいかな」
「街から見える海か? それとも砂浜のある海がいいか?」
「波の来るよううすが見たいから砂浜のほうがいいな。あっでも足汚れるかな?」
「流石に冬の海で裸足は無理だろ。靴で行けそうなところまで行けば大丈夫だよ。よし行こう」
敬吾は決断が速い。だからといって強引でもない。有希は敬吾と過ごす心地良さを感じていた。
部屋を出てマンションの駐車場から敬吾の車に乗り込んだ。
「運転すみません」
「ほらまた敬語。それに俺が誘ったし、俺運転好きで結構一人でもドライブするんだ。気分転換にはもってこいなんだ」
「そうだね。僕は車持ってないから気分転換は散歩かな。ぶらぶら歩いて、本屋寄ったりしてね」
「散歩もいいな、けど昼間だけにしろよ。夜は危ないから」
「ふふふ、男だから大丈夫だよ。敬吾さん心配性だね」
「有希に対してだけだよ」
「えっ!?」
有希は言葉に詰まった。そしてしどろもどろ赤くなった。不意打ちにそんなこと言わないで欲しい。
有希は翻弄されているのは自分だけと思っていた。こんなあたふたして恥ずかしい。
しかし敬吾も有希のしどろもどろな反応に激しく欲情していた。今すぐ押し倒したい思いだった。運転中だと己に言い聞かせた。いや運転中で良かっと思った。部屋だったら理性に打ち勝てだろうか? 有希も敬吾を翻弄していたのだ。
どこか甘酸っぱい沈黙を破ったのは敬吾だった。
「どこもかしこもクリスマスばっかりだな。有希は勤務どうなってんの?」
「今年は平日だからな。二十四日は当直で二十五日はそのまま日勤だよ」
「イベント時は、研修医と独身の先生が犠牲になる慣習だからな」
「まあ仕方ないよ。子供のいる先生は家族サービスしないと、ただでさえ忙しすぎて子供にお父さんって認識されていない先生もいるってだし」
「はは医師あるあるだよね。その点看護師は、勤務中は息もつけない忙しさだけど超過勤務はあんまないからいいかな」
再び話が弾んでいるうちに駐車場につき車を止めて外に出ると、そこはもう海だった。
敬吾が有希の首にマフラーを巻いてくれた。「風が冷たいだろ」そう言って。
有希はマフラーの暖かさよりほのかに感じる敬吾の香りになにやら全身を包み込む暖かさを感じた。
海岸線まで出てコンクリートでできた階段を降りると砂浜が見えた。
敬吾が有希の手を引いた。最初は戸惑ったが砂浜は歩きにくくおかげで躓かず歩けた。
指先が熱い。
触れている手のひらに全身の神経が集中して胸が騒ぐ。
「行けるとこまで行こう」
敬吾の有希の手を握る力が僅かに強まった。男らしい大きな手。有希も強く握り返した。今の有希にできる精一杯の意思表示だった。
ふっと、敬吾が立ち止まった。
「有希」
名前を呼ばれて顔を上げると、敬吾の唇が有希の唇に触れた。ほんの一瞬の優しい重なりだった。
唇が熱い。身体が熱い。全身の血が沸騰しながら巡っていくようだ。ここはほんとに冬の海なのか……。
「好きだよ、有希」
「えっ……」
「ふっ、ゲイに告白されても迷惑?」
「……いやそれはない。敬吾さんとこうして一緒に過ごすの好きだから、多分僕も……好きなんだと思う」
語尾は聞き取れないほど小さかったが、敬吾はしっかりと聞き留めた。
「嬉しいよ。でも手は出さないから安心して。こうして時折会ってくれたらいい」
どうして手を出さないのかとは思ったが、それ以上を考える余裕は今の有希には全くなかった。
敬吾のぬくもりに包まれ好きだと言われ、心も、身体もお花畑にいるような、多幸感につつまれていた。
「風が強まってきたな。そろそろもどろうか、風邪ひくといけない」
「ふふふ敬吾さん心配性だよね」
「だから有希限定だって」
「ど……どうして」
「好きな人を心配するのは当然だろ。俺丈夫だから風邪なんて引かないけど、有希は繊細そうだし」
さっきは戸惑った敬吾の心配が今は嬉しかった。敬吾の自分への思いを知ったからだ。
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