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第8話

研修医二年目の夏は慌ただしく過ぎた。十月からの選択研修は後期研修を念頭に決めなくてはならない。有希は外科医の道に進むべく母校の教授にも挨拶を終え、本格的に外科医の卵として日々励んでいた。  敬吾に会いたい気持ちは強いが、敬吾は敬吾で主任看護師を補佐する若い看護師のリーダー的立場で中々に忙しくすれ違いが続いた。  二人を繋ぐものは時折の電話だけになっていた。しかし有希は敬吾の声を聴くと、心が安らぎ気持ちが凪いでいくのを、毎回感じていた。  敬吾も有希と話す時間は忙しい日々のオアシスになっていた。  会いたい気持ちは当然にあるが、お互いに今は将来のためにキャリアを積む時だと思っていた。  十月も下旬になっていた。有希は専門に決めた心臓外科の学会に出席した。  敬吾からプレゼントされたネクタイをしめていた。敬吾が傍で見守ってくれている気がした。 「西崎先生こんにちは」  母校の心臓外科の向坂主任教授の娘の美咲だった。夏の終わり教授へ挨拶に行った折、偶然来ていた美咲に会っていたが、挨拶を交わしただけなので声を掛けられて驚いた。 「こんにちは。驚きました。こんな所でお会いするとは。今日は教授とご一緒ですか?」 「ええ、今日は父から臨時の秘書役としてかりだされました。西崎先生に会えて嬉しいですわ」 「それは大変ですね。なにかあれば私もお手伝いしますよ」 「ありがとうございます。その時はお願いしますね。……先生の今日のネクタイ素敵ですね、どなたのお見立て? 彼女さん?」  突然の指摘に一瞬絶句したがなんとか答えた。 「ありがとうございます。男友達ですよ、彼女はいませんから……」 「センスの良いお友達なんですのね」  そう言って軽やかに去っていった。この出会いというか再会実は、偶然ではなかった。  医局で会った折に美咲は有希を気に入っていた。もう一度会いたくて父である主任教授にこの日のセッティングを半ば強引に迫っていた。  向坂教授も一人娘の美咲には自分の後継者になるべく医師と結婚させたいと考えていたため反対する理由はなかった。ただ研修医というのが役不足に思えたが、今からキャリアを積んで上がっていけばいい。娘婿になるなら当然後押しもする。そう考えていた。  その晩有希は敬吾に電話をした。敬吾からプレゼントされたネクタイを褒められたことを伝えたかった。敬吾のセンスを褒められて単純に嬉しかったから。  しかし敬吾は良かったなと答えながらも、美咲の気持ちに感付くものがあり、素直に喜べなかった。  二人の間に少しづつ暗雲が忍び寄っていた。敬吾は薄々感付いていたが、有希は全く気付いていなかった。  師走になり忘年会の知らせが届いた。昨年二人の仲が近づくきっかけになったことを思い出し一年の時の速さを感じ入ったのは二人とも同じだった。  有希は敬吾に出席するのか尋ねたら否との返事がきた。なんでも当日は夜勤で交代も不可とのことだった。がっかりして自分も欠席するかと考えたが同期の木山から最後の機会なんだからと誘われ出席した。  全く楽しめなかった。昨年の事を思い出すだけで敬吾のいない空白に寂しさが募った。  有希の心にぽっかりと穴の空いたまま年が明けた。二人は会えないままだった。  二月バレンタインの前日有希に美咲から宅配でチョコレートが届いた。  有希にとっては意外な人からのチョコレート。しかも明らかにかなりの高級チョコレートだ。  何故僕の住所知ってる? 教授に聞いたのか? 疑問と共に送り状に書かれている電話に掛けたら三コールで美咲が出た。 「西崎先生! チョコレート届いたんですね。住所は父に聞きました。ほんとはいけないことですけどいいでしょ? 私の気持ちと共に受け取って下さいます?」  罪悪感など全くなく明るく話す美咲に、あーとか、はいとかしか言えずに有希は電話を切った。  教授に住所を聞いたってことはチョコレートのことは教授も知っているのか? そこまでは知らないのか?  有希は過去のバレンタインにそれなりのチョコレートを貰ってきた。義理には義理のお返しをしてきたが本命と思われるものにはかえって何もしなかった。その方が相手のためにも良いと思うからだ。  しかし今回は迷った。相手は入局が決定している医局の主任教授の娘だ。どうしよう……こんな高級チョコレート貰いっぱなしでいいか?  相手が相手なだけにやたらに相談することもできない。迷った有希は敬吾に打ち明けた。それは有希の敬吾への信頼の証でもあった。  打ち明けられた敬吾は自分が感じた不安の的中を知った。美咲は有希を見初めた。教授も承知なんだろう。  有希はバイセクシャルとは思うがゲイではない。自分と出会う前女との経験はあったが、男の経験はなかった。  女を抱けるならこちらの世界に引き込めない。そう思って懸命にキスだけで耐えた。いつかは真っ当な道へと押し出してやりたいと思っていた。  その時がきたのだ。少し早いとの思いもある。出会って二年足らず。付き合い始めてほんの一年ちょっとだった。しかもその間何回会えた? 少ない逢瀬のそれぞれが敬吾の脳裏を巡った。  有希幸せになれよという思いと共に敬吾は決断した。  敬吾がまさか別れを決めたことなど露知らずホワイトデーに有希は美咲にかなりの高級菓子を送った。  敬吾が教授の娘さんには、貰った高級チョコレートに見合った品を送らないと失礼だ。まして何もしないなんて駄目だぞと言ったからだ。  裏を読めない真っ直ぐな性格。敬吾の真意を探ることは有希には無理と言えた。だがそんな有希だから敬吾は愛した。いや愛しているといえた。  そして有希は敬吾が望んだ方へと進むことになる。  ホワイトデーに有希からお菓子をプレゼントされ喜んだ美咲と、一人娘に弱い向坂教授。有希は親子の強力なタッグに抗えなくなる。

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