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第9話

二年の初期研修を終え、有希は四月から後期研修医として母校に戻り本格的に外科医への道を歩み始めた。  慌ただしいく四月が終わり五月になった。有希の誕生月だ。  誕生日を目前に有希は向坂教授から食事に来るように家に招待された。  その日は誕生日当日ではないけれど近い日曜日だったので敬吾からの誘いを期待していたが待ち望む誘いは無かった。自分から催促もできず落胆した有希は教授の誘いに応じた。  一介の平の医局員が主任教授の誘いを断るのは中々出来ることではない。昭和の白い巨塔の時代ではないが、今でも教授の権力は大きい。  教授宅に着いた有希は驚いた。単なる食事会ではなく有希の誕生日を祝う食事会だったからだ。  ここまできて固辞するのもかえって失礼と思い戸惑いながらも食事を共にした。  遠慮しながらも和やかに食事する有希に美咲は益々好意を深めた。好感を持ったのは教授夫妻もだった。  教授宅での有希の誕生食事会を境に、美咲は有希を恋人として、教授夫妻は娘の恋人とみなすようになった。  呼び方も教授こそ西崎君だったが、美咲と夫人は「有希さんでいいわね」と西崎先生から変わった。  五月が終わり六月になった。誕生日当日は過ぎても誕生月のうちには会えるのか、何かしら敬吾は祝ってくれるのでは? という有希の願いは儚く消えた。  敬吾の気持ちに不安を持ちながらも有希は、敬吾の誕生日は昨年同様祝いたいと思い、敬吾にスケジュールを訊ねるため電話した。  祝わなくていい……それが敬吾の答えだった。食い下がる有希に敬吾は告げた。 「もう二人で会ったりしない方がいいと思うんだ」 「なんで……どうしてだよ……ぼっ僕のこと嫌いになった?」 「有希のことは好きだよ。でも向坂教授の娘さんの事があるだろ? 身辺はきれいにしておいた方がいい」  有希は浮気を責められているように感じた。 「教授の娘さんはそんなんじゃない。付き合ってるとかじゃない」 「いずれそうなるよ。好意を持たれてるだろ?」  それは有希も自覚していた。さすがに最近はこのままではやばいとなと思い始めてもいた。 「きっぱり断るよ」 「馬鹿っ、そんなことしたら医局にいられなくなるぞ」 「だったらやめる」 「益々大馬鹿だ。大学にもいられなくなる」 「じゃあ教授の娘さんと付き合えと?」 「それがあんたのためだ。俺はゲイだから女は駄目だがあんたは違う。女も大丈夫なんだ、こちら側に来ることはない」 「それって別れる前提だよね? 僕は別れることに同意していない。絶対に別れない」 「西崎さん俺たちそもそも付き合ってたのか? この一年半で何回会った? 数えるほどだろ? そんなんで付き合ってたって言えるのか?」  敬吾の呼び方が有希からあんたに、そして西崎さんに変わった。有希はそれを絶望的な思いで認識した。  確かに逢瀬は数えるほどだった。その数少ない逢瀬がどんなに幸せだったか……そして声を聞くだけでどれほど安心できたか……。 「付き合ってたと思ってたのは僕だけだった……独り相撲だったのか……僕勘違いしてたんだ……」  涙が溢れて嗚咽した。もう言葉にならずそのまま電話を切ってむせび泣いた。  愛する人が泣いている。しかも泣かせたのは自分だ。直ぐに飛んで行って抱きしめてやりたい。  勘違いじゃない。独り相撲でもない。愛していた。いや今でも愛している……。  愛しているからこそ今、身を引かないと……。  最近こそ同性愛に対する世間の目も若干和らいだかもしれない。同性パートナーシップ制度ができた自治体もあるがまだまだ偏見は根強い。  まして医学会は昔とは違い随分開けてもきたが旧態依然としたところも残っている世界だ。一介の町医者で終わるならともかく有希は違う。  日本最高峰の東都大学を卒業した前途洋々の医者だ。そしてその母校の主任教授の娘に見初められたのだ。  しかも有希は決して教授の娘婿という七光りに終わることはないだろう。それを足掛かりに確かな道を歩んでいくだろう。それだけの実力があると思う。  有希の悲しみも負った心の傷も時間が解決してくれるはずだ。教授の娘さんも癒してくれるだろう……敬吾は自分に言い聞かせた。  有希の幸せに自分は必要ない。「有希……幸せに……なれよ」敬吾は絞り出すように言った。  有希は身体中の水分が枯れるほど泣いた。こんなに泣いたのは物心ついてから記憶にない。  悔し涙を流すとか比喩にすぎず実際に流したことはない。まして悲しみからくる涙も流したことはなかった。  この時、既に有希は敬吾へのプレゼントを用意していた。  部屋で寛げるようにとルームウェアを選んでいた。これを着て昨年送った薩摩切子のグラスで酒を飲む敬吾を思い浮かべながら選んだのだ。  どうするか迷った。受け取ってはもらえないだろう……。けれど自分で処分することもできない。だからといってこのまま持ち続けるのは辛い。  迷ったすえに手紙と一緒に宅配便で送ることにした。  手紙には、短い間だったし数少ない逢瀬だったが楽しかった、ありがとうと簡潔に記しルームウェアは不要なら処分して欲しいと書き添えた。

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