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第10話
四年の月日が流れた。
明日は休みという日敬吾は仕事帰りに同僚と食事を共にした後別れ、『深海』に来た。ここ最近の休前日には割と多いことだ。
「いらっしゃい。いつものでいい?」
マスターがそう言いながら目線でボックス席を指した。
ボックス席に目をやった敬吾は驚愕した。有希が男と二人でいたからだ。しかも相手の男は店の常連だ。勿論ゲイでタチ専門の男だ。
「有希……なんで」
「やっぱり敬くんの、そうだと思った。一人で来てカウンターにいたのを、秀君が声かけてさっきあっちに移ったよ」
敬吾の頭に怒りの火が付いた。敬吾はすぐさま席に近づき有希の手を掴んだ。
「こんな所で何やってんだ! あんたが来る所じゃない!」
「マスター悪い今日は出る。この人の飲み代俺に付けといて」
そう言うと有希の手を掴んだまま引きずりだすように外に出た。
敬吾の剣幕にマスターも有希と一緒にいた男も呆然と二人を見送った。
「帰るんだ」
「今日は気晴らしで来たんだ。明日は休みだし帰るにはまだ早いよ」
「気晴らしって、こんな場所に出入りしてることが奥さんや教授に知れたらどうするんだ」
「もう別れたんだ関係ない。僕は今独り身だよ」
「えっ……別れた……どっ、どうして……」
盛大な結婚式だったと……招待客も錚々たる顔ぶれだったと聞いた。そのすぐ後、敬吾は病院を変わっていた。出会った病院は東都大学の関連病院のためどうしても噂話が伝わってくる。有希の面影を求める自分の未練を断ち切るためにもと、別の病院に移ったのだ。
別れたって……離婚?……敬吾の思考は激しく混乱した。
「ごめん、……ちょっと理解が追いつかない。どうして別れたんだ? 医局は?」
「色々あって……医局も辞めた。今は医局とは関係ない病院にいる」
有希は、敬吾に全てを話したいと思った。敬吾も全てを知りたかった。
しかし内容が内容なだけに、やたらな場所では駄目だ。部屋に誘うか……敬吾は迷った。躊躇する気持ちはあるが、このまま何も聞かずに別れることもできなかった。
「今から俺の家に来るか? 話を聞きたい、話してくれるか」
有希は頷いた。
「マンション変わってないんだな」
エントランスで有希は懐かしく思った。部屋に入るとさらに懐かしい匂いに胸がキュンとした。
敬吾の匂いだ。あの頃この匂いが好きだった。有希を優しく包み込むような……。
「コーヒー入れるから座ってろ」
座ろうとしてソファーにかけてあったルームウェアに目が釘付けになった。
「あーごめん朝バタバタして置きっぱなしだった」
そう言って敬吾が手にしたルームウェアは、4年前に自分が送ったものか? 似たものか?
「それってひょっとして……」
敬吾には有希の疑問が伝わった。ルームウェアを手に朗らかに言った。
「有希からのプレゼントだよ。物が良いからだろな、四年も着てるけどほらっ、まだまだ着られるよ」
「す……捨てたんじゃなかったのか?」
「有希からのプレゼントを捨てるわけないだろ。大事に着てる。昨日の晩もこれ着てあの薩摩切子のグラスで飲む酒がうまくてさ、えっ! ……どうした?」
有希の目から涙が溢れ出た。
「ご……ごめんてっきり捨てたって……」
それ以上は声にならず泣き続ける有希を敬吾は抱きしめた。あの最後の電話の時は泣く有希を抱いてやれなかったが、今はいいよなと自分に問い掛けながら……。
力強く抱きしめたあと少し力を弱め有希の頭から背を優しく撫でた。大切に慈しむよう優しく……。
敬吾の優しい抱擁に落ち着いてきた有希の様子を感じた。
敬吾は両手で有希の頬を包み込むようにして顔を上げさせた。涙の残る顔に触れるように口付けた。そして涙を吸い取っていく。有希の思いも全て吸い取っていくように……。
二人はソファーに並んで座った。敬吾は有希の肩を抱き寄せ有希も敬吾に身体をあずけた。四年の空白を感じさせないぬくもりを、二人は共に感じていた。
ぽつりぽつりと語りだす有希。敬吾は有希の手を握り、時折肩を抱き寄せる手に力を入れながら静かに、有希の言葉に耳を傾けた。
別れの翌年三月に有希は結婚した。積極的な美咲と教授夫妻に押されるような形ではあったが、敬吾との別れからくる心の隙間を美咲が束の間紛らしてくれたのも事実だった。
向坂家側は有希が養子に入ることを希望したが有希は受けられないと断った。また教授宅での同居も希望されたがそれも断った。
有希は七歳の時両親が離婚し、以来母親一人に育てられた。女手一つで大変だったと思う。
大学も地元の岐阜はともかく、名古屋の大学なら自宅から通える。名古屋なら旧帝大もある。しかし母は挑戦したいという有希の背を押してくれた。
母が行かないで欲しいと止めたら自分は東京に出て来られなかたと思う。有希は母親には感謝していた。
ゆえに養子は勿論同居も母の事を考えると受けるわけにはいかず、それだけは引かない有希に、向坂家側も折れた。結果的にはそれは後に幸いすることとなる。
二人の結婚生活は順調にスタートした。結婚当初から美咲の我儘な性格が徐々に見えてきたといえ、一人娘のお嬢様育ちゆえの事と思い許容範囲ではあった。
二年を過ぎた頃から暗雲が漂い始めた。子供が出来ないからだ。
結婚当初から美咲は子供を欲しがった。教授夫妻も孫を早く抱きたいとの意向を隠すことはなかった。
有希も異論どころか速く出来た方が美咲も母親として安定するだろうと思っていた。
誰しもが待ち望んだ子供が出来ない。焦燥感に駆られた美咲は不妊外来を受診した。
有希も医者として、タイミング法などできることはしていたので、専門医に診てもらうしかないと思っていた。
結果美咲には何の問題もないことが分かった。年齢も妊娠に一番適した年齢層だ。つまり問題は有希にあるとの確率が高まった。
有希は受診した。結果を知って流石に呆然とした。無精子症だったからだ。妊娠出来ないのは有希に責任があると明かになった。
茫然自失した有希を美咲が慰めることはなかった。それどころか美咲の有希に対する気持ちは急激に冷めていった。無精子症なんて、男として無能との思いからだ。
美咲の急な態度の変化に傷つきながらも、責任は自分にあると思い、全てを甘んじて受け止めた。
二つ目の不幸が有希を襲った。手術中にイップスの症状が出始めたのだ。
原因不明と言われるイップスだが、多分に精神的な要素が大きいとされる。有希も明らかに無精子症の診断が影響していると自分でも思った。
現実は残酷だった。有希が焦れば焦るほど、手は思うように動かない。次第に手術から外されるようになった。
この時の有希は1人現状に抗い孤独の中でもがいたが、結果は残酷だった。結局、その状態から抜け出すことはできなかった。
最終的に義父でもあった向坂教授から引導を渡された。娘婿としても心臓外科医の後継者としても……。
有希は全てを受け入れた。既に覚悟はできていた。その時点で美咲は実家に戻っていたため、離婚届は自分の欄のみ記入し教授に託した。
二月有希と美咲の離婚が成立した。有希の無精子症診断から半年、結婚から三年が過ぎようとしていた。
そして三月、年度末を区切りに有希は医局を辞めた。心臓外科医への夢も自ら断ち切った。
心臓外科医を断念した有希は、新たに総合診療医を目指し一般病院に移った。
過疎が進む地方の医療を立て直す動きにも共感したが、東京を離れたくなかった。敬吾がいたかったからだ。
四年前突き放された。今更会いにも行けないし、会っても貰えないだろう。それでも同じ東京にいたかった。
この四年間、幾度となく敬吾を思い出した。有希の脳裏から敬吾の面影が消えることはなかった。
新しい病院にも馴染んできた有希は六月の休日前『深海』を訪れた。
簡単なことではなかった。敬吾と会えるかもしれないという期待と恐れ。店に入る時は怖かった。心臓が飛び出るかと思うくらいにドキドキした。
扉を開け中を窺うと敬吾の姿は見えなかった。ほっとしたようながっかりしたような気持ちで中に入った。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
頷いてマスターの指し示したカウンター席についた。
一人で飲んでいるとほどなくして男に声をかけられ、気楽に応じボックス席に移動した。
男の話に適当に相槌を打ちながらも思いは敬吾にあった。相手が敬吾だったら……敬吾と飲みたかった。
だから敬吾に突然腕を取られた時は驚きで心臓が止まるかと思った。
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