14 / 22

第14話

 二人の愛は密やかにではあるが順調に育まれた。  有希が大学病院から移った市中病院では、初めのころこそあの東都大学から落ちてきた医者だと異分子扱いだった。教授の娘婿だったが別れたから落ちてきたと色眼鏡で見られもした。  そういった空気の中で有希は淡々としながらも、真摯に必要業務をこなした。有希の偉ぶらない柔らかな態度は患者にも評判が良く、有希が主治医の患者はほかの患者から羨ましがられるほどの人気になった。  そんな中で有希を取り巻く空気感も徐々に変わってきた。初期研修医や後輩医からは教えを乞われることも少なくない。上級医からも頼りにされるようになっていた。  皆の見方が、『なんでわざわざ東都の医局からうちにきた』から『さすが東都だな、出来る先生だ』に変わっていったといえる。  周りの空気の変化は有希にさらなるやる気を促した。この病院に来た当初は絶望の底にいた有希だが今は心身ともに充実していた。病院の空気の変化もだが何より敬吾の存在は大きかった。どんなに疲れていても落ち込んでいても敬吾の声を聴くと癒された。声を聴くだけでそれだから会えばそれは倍増した。  お互いに忙しく、また医療職特有の変則勤務もあっていつも会えるわけではなかったが、出来うる限り会うようにしていた。  敬吾もかつてないほどの充実感を感じていた。病院では師長に次ぐ主任として中々に忙しかった。所謂中間管理職的位置づけのため苦労も多かったがその分やりがいも大きかった。  有希とは中々会えないことは悩みの種ではあったが医師としての有希の成長のためと思ったし、有希が成長する分、自分も看護師としてキャリアを上げねばと思っていた。  逢瀬の時は出来るだけ敬吾が有希に合わせた。おっとりした有希がそれに気付いてないこともかえって可愛いと思う自分に「俺もたいがいだなー」と、自らに突っ込んだ。  二人が会うのは大抵敬吾の部屋だった。手作りの美味しい料理を食べさせたい敬吾の思惑と、敬吾の手料理が大好きな有希の思いがそうさせた。  かつて妻だった美咲の料理も悪くはなかった。料理教室にも通っていたようだし、時間はかかるようだが何もできない自分に不満はなかった。母親の料理は有希にとって所謂おふくろの味と言うべきもので、今でも帰省の折に食べると懐かしいしうまい。  しかし敬吾の料理は特別だった。有希は胃袋も敬吾にガッチリ掴まれていた。やはり有希は気付いてないが敬吾は意図しているから手料理を食べさせたかった。敬吾は有希の胃袋含め全てを掴んでおきたかった。親鳥が小鳥を羽の中で育てるように……それが敬吾の愛し方だった。  自分がこれほど執着するような愛し方をするとは意外でもあり、そうだろうなと納得もできる。有希は初めて愛した人だから今までの経験値がないからだ。  秋も深まった頃、有希に愛知県一宮市の病院から誘いがかかった。元々大学病院から移る時に今の病院と共に候補に挙がった病院だった。その時は敬吾がいる東京を離れたくないと今の病院に決めた経緯があった。  今回再び来年の四月からの勤務を考えて欲しいとのことだった。先方は有希が一宮市近隣の岐阜の出身であることも知っており熱心に誘ってきた。  確かに岐阜は大学入学まで十八年間育った故郷であり、今も母親が一人暮らしている。岐阜から一宮までは電車で十分ほど、車でも三十分ほどの距離だ。母も今は仕事も現役で元気に暮らしている。しかしいずれは自分が近くに行くか、呼び寄せることになるだろう。  勧誘先の病院も総合診療医として歩み始めた有希にとって魅力的な病院だった。院長は有希と同じ東都大学の出身でまだ歴史の浅い総合診療科を地方にも広めたい、そして地域医療の充実を担う気持ちから一宮に病院を作った人だ。その院長の理念には共感を覚えるし自分も役立ちたいと思った。  また院長の人柄にも好感を持った。おそらく有希の離婚の事も知っているだろうが、一切触れることもなく「西崎先生力貸してよ」とだけ爽やかに言われた。  有希にとって一番の問題は一宮に行けば当然敬吾と離れることだった。東京と一宮、所謂遠距離恋愛だ。それは耐えられる気がしない。今でも勤務シフトの関係で会えない日が続くと寂しくて、一緒に暮らしていれば毎日会えるのにと思う。とても敬吾に言う勇気はないけど。  有希は迷いに迷った。六月に敬吾と再会し恋人になってからこんなに迷うのは初めてだった。  敬吾とのことがなければ全く迷うことも無いわけで、それだけ有希にとって敬吾の存在は大きいと言えた。

ともだちにシェアしよう!