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第52話

「帝は自分が傷つくことには敏感なのに、他人を傷つけることは鈍感だよね」  朝霧はそう言われても何も言えなかった。  ただただ深く頭を下げて、夏川の許しを乞いたいと思ったが、またもプライドが邪魔をして実行には移せなかった。 「帝、俺だってね。傷つくんだよ」  朝霧をじっと真正面から見つめる夏川の瞳は、潤んでいた。  夏川を傷つけた。  朝霧は自分が傷つけられたように胸が痛み、とっさに自分の心臓に手を当てた。 「何か最後に言いたいことある? 」  夏川の問いかけに謝るべきだと分かっていたのに、朝霧はできなかった。  黙ってしまった朝霧に心底呆れたように、夏川が息を吐く。 「じゃあ、もう行っていいよ」  朝霧はふらつく体で立ち上がると、会社用のダサいスーツに着替え、リュックの中に、床に散らばっていたスーツを詰めた。  朝霧は深々と頭を下げた。 「今までありがとう」  ずっと好きだった。  そう続けたかったが、結局できなかった。   そんな意気地のない自分が、朝霧は大嫌いだった。  玄関で手に持っていた靴を履き、ノブに手をかける。  ふと朝霧は立ち止まった。  ここで何度もセックスした。  帝、イイ?  夏川の甘い声が脳内に響く。  今すぐ踵を返して、夏川に謝りたかった。  許してくれるなら何でもすると、縋りつきたかった。  寝室の方へと足を向けようとした朝霧の脳内に、別の声が響く。  君はもう、育ち過ぎたからね。  可愛くないんだよ。  初恋の男の声だった。  20年以上も会っていないというのに、その声や姿を朝霧は鮮やかに思い出すことができた。  顔を青ざめた朝霧は、逃げるように玄関から飛びだした。  朝霧はその日から『やどり木』に行かなくなった。  もちろんスマホには夏川からの何の連絡もない。  朝霧は以前よりさらに不眠に悩まされることとなり、不眠からくる頭痛のせいで食事もままならなくなっていた。

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