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私から見た彼らは

 『やどり木』のマスターこと、猪塚千春(イノヅカ チハル)は目の前のマンションを見て、大きなため息をついた。 猪塚自身、バーの経営者であるが、とてもこんな都内の高層マンションに住めるほどの稼ぎはなかった。 『やどり木』の常連である朝霧と夏川が、そのバーの店内で修羅場をくりひろげたのは先月のことだった。 その後、2人は揃って『やどり木』を訪れ、猪塚に謝罪をした。 朝霧は店内で騒いでしまったことに対してひたすら恐縮していたが、夏川はそんな朝霧を愛しそうに見つめるだけで、たいして悪いとは思っていないようだった。 「お詫びに今度、俺の手料理でも食べに来てよ」 バーを去り際の夏川の言葉は社交辞令ともとれたが、隣で熱心に「ぜひ」と言う朝霧の誘いを断りきれなくて、猪塚は本日、夏川の住んでいるマンションを訪れたのだ。 マンションのコンシェルジュに声をかけるとびっくりするくらい丁寧な対応で、エレベーターに案内される。  上昇する箱に乗りながら、猪塚は小さく息を吐いた。  朝霧が熱心に誘うからだけでなく、猪塚自身、朝霧と夏川のカップルには興味があった。  よく美しいと評される朝霧が初めて『やどり木』を訪れたのは三年ほど前になる。  仕事柄、相手がどういう人間か初対面でもある程度は分かる猪塚は、カウンターに座った朝霧と少し話しただけで、彼のことが気にいった。  見た目とは裏腹に朝霧は驚くほど自分に自信がないのだということも、猪塚はその時感じた。  もちろんそれに気付いたことを朝霧に指摘するような猪塚ではないが。  朝霧が身に着けているものは決して悪くはないが、裕福と言えるほどの稼ぎはないのだろうと、少し傷のついた彼のブランドものの腕時計をちらと見ながら、猪塚は思った。  自分に自信がなく、優しすぎるくらい優しい朝霧は人を傷つけるのを好まずに、どんな相手からの誘いでも受けた。  たまたま最初に彼と寝た男がネコ希望だったため、朝霧は『やどり木』ではタチ希望なのだと認識されていたが、どこか笑顔に寂し気な雰囲気のある朝霧を、本当は抱かれたい男なのではと猪塚は推測していた。

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