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第186話

 弾かれたように朝霧が顔を上げる。 「考えてない。別れないっ」  断言した朝霧の頭をよくできましたというように、夏川が撫でる。  朝霧は夏川のニットを溺れたみたいに、強く掴んだ。 「でも俺、本当にどうしたらいいか分からないんだ。俺が音羽の提案を突っぱねたら、誰も病院を継ぐ人間がいなくなる。本来それは俺が果たすべき義務だったのに」  唇を噛む朝霧を痛ましそうな表情で夏川が見つめる。 「帝、子供が全て親の思い通りに育たなきゃいけないなんてことはないんだ。それに帝にしたことを考えたら、音羽は病院の跡継ぎには相応しくないと俺は思う」 「でも音羽は本当に医者としてしっかりしていた。俺の父親もちゃんと診てくれて」 「帝」  むぎゅっと朝霧の頬が、夏川の両手で押しつぶされる。 「俺の腕の中で他の男を褒めるの禁止」  挟まれて赤くなった頬を朝霧が摩る。 「そんなつもりじゃ」 「冗談だよ。帝は長男としての立場があるから、色々考えちゃう気持ちも分かるけどさ。でも俺は帝の恋人としての立場から、帝が哀しい想いをするような選択は例え本人が決めたことでも、背中を押してあげられないよ」  そこまで言うと、夏川は朝霧の唇にちゅっと吸いついた。 「特に俺と別れるなんて論外だから」 「うん」  夏川の言葉が嬉しくて、朝霧は涙目で頷いた。 「とりあえず音羽は一発ぶん殴って、お前の言うことなんて聞かないってきっぱり言ってやれよ。俺もその時はついて行くし」 「殴るのは、できないと思うけど……うん、ちゃんと断る」  朝霧の言葉に夏川が微笑む。 「いい子」  朝霧は最愛の人の腕の中で目を閉じた。  こんなに心地のいい場所を自分から手放せるわけがない。  それで親の病院が廃業したとしても? 父の病気が悪化したとしても?   その問いは、朝霧の胸を重くした。  暗い問いかけを振り切るように、朝霧は目をぎゅっと閉じた。 「そう言えば、リョウが帰って来るのって、明後日じゃなかった? 」  ふいに思い出し、朝霧が顔を上げる。 「大好きな恋人にすごく会いたくなっちゃって、泣いて引き留める両親を振り払って、予定より早く帰って来たんだけど? 」 「ご両親泣いてたの? 」  朝霧が目を見開くと、夏川がぺろりと舌をだす。 「ごめん。それは嘘。でも帝に会いたくて早い飛行機に変えたのは本当」  そう言うと夏川は朝霧を抱き上げた。 「帝、会いたかったよ。これからちょっとの時間は俺のことだけ考えて」  夏川の鼻先を己の鼻先に擦りつけられ、朝霧はくすぐったそうに目を細めた。 「俺はいつだってリョウのこと考えてるよ」  夏川は嬉しそうに微笑むと、寝室の扉をくぐった。 「俺もだよ、帝」  その声は綿菓子みたいに甘かった。

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