2 / 24

白狐

 その狐を少年は放ってはおけなかった。だから親の言いつけなど無視して、少年はあの屋敷へと向かった。  少年はどしゃ降り雨の中、懸命に走っていた。その腕の中には、白い毛を血で斑に染めた白狐が意識を失って抱かれている。何とかしないと、この子は死んでしまう。その前に助けなければ。この子はきっとただの狐ではない。ならば彼らが助けてくれるかもしれない。彼らが受け入れることを祈りながら、少年は息を切らしながら走るのであった。  少年は目的の場所に着くと門を叩いた。 「お願いします、狐の子が大怪我をしているんです!」  門がゆっくりと開き、門番の男が少年を見る。その途端、男は少年を睨み付けた。 「蒼宮(あおみや)の小僧が何の用だ。さっさと家に帰りな」  少年はそれでも引き下がらない。閉められようとした門に足を挟み、なおも訴えた。 「僕のことは嫌っても構わない! 銭ならいくらでもお支払いします! だからこの子を助けてください!」 「蒼宮なんぞの言うことなど信用できるか! さっさと失せろ! 足を潰すぞ!」 「頭領にも次代にも報告なく、お前は来訪者を追い返すのか?」  冷たい声がその場に響く。すると門番の男の顔からさあっと血の気が引いて、慌てて振り返る。そして男は声の主に片膝を突いた。 「じ……次代様……」 「お前は下がってろ。私が話をする」  同い年くらいの声の筈なのに何と冷たいのだろう。少年が身体を強張らせると、門の内側から子供が姿を表した。  姿を表した少年は、外見は普通のようであった。切れ長の黒い瞳に、後ろで一つに括った髪、そして普通の武家の子の格好。なのに、この次代と呼ばれた少年はどこか大人びたようで冷たい雰囲気を纏わせていた。 「門番が失礼しました。蒼宮殿、どのような御用でこの屋敷にいらっしゃったのですか?」  この「次代」という少年なら話を聞いてくれるだろう。蒼宮の少年は、次代の方に腕の子狐を見せた。 「この子狐が大怪我を負ったようで……何とかしてくださいませんか?」  先程の門番とは違い、次代は手を子狐に翳す。すると、険しい顔をした。 「この狐は妖狐のようですね。助けたとしても、貴方に害を及ぼすやもしれません。それでも助けたいのですか?」  次代の瞳はあまりにも冷静で、見透かされているようで怖い。それでも少年は頷いた。 「はい、金ならいくらでもお支払いします。ですから……」  次代は僅かに目を見開いたが、すぐに冷たい顔に戻った。 「いいでしょう。ならばこの妖狐の手当てを致します。蒼宮殿、どうぞ中へ」  次代に促されて中に入る。少年はふと、次代の名前を聞くのを忘れていたことに気づいた。 「あの……僕は氷雨(ひさめ)と申します。次代……殿のお名前は?」  次代殿は目をぱちくりとさせて驚いたような顔をしたが、ぎこちなく答えた。 「私は……蛍火(けいか)と申します」  ぼそりと言うと、蛍火はすたすたと前を歩き始めた。  蛍火は奥の一室に氷雨を連れてくると、布の上に子狐を置くように促す。そして氷雨の方を見た。氷雨は見たこともないような、深い海の色の瞳をしていた。髪の方も最初は自分と同じ黒髪かと思ったが、行灯の光に照らされて濡れた髪は黒と見紛う深い藍色。変わった髪をしているのに、不思議と違和感がない。蒼宮は小賢しいなど腹黒だと皆が口々に話していた。だが…… (不思議と嫌いになれないな……)  私ならば見るも怪しい狐など助けられない。なのに氷雨殿は濡れ鼠になってまで妖狐を抱えてここまで来た。私にはもう持ち合わせもしない慈悲の感情だ。そんな氷雨殿をどうして見捨てられようか。蛍火は氷雨に自分の服と手拭いを渡す。そして氷雨から視線を離すと妖狐の手当てに取り掛かった。 「氷雨殿はよくこんな妖狐を助けようと思われましたなあ」  皮肉だと思いながらも氷雨殿に問い掛ける。すると氷雨殿は微笑んだ。 「ええ。だって助けないといけないと思いましたから」  この人はお人好しなのではないだろうか。蛍火は狐の傷口に己の霊力を注ぐ。 「氷雨殿、貴方は陰陽術の心得は?」  氷雨殿は申し訳なさそうに首を振る。 「いいえ。陰陽師の古き血がこの身に流れるだけ。見えるだけで何も出来ません」  この人、絶対お人好しが原因で死ぬのではないだろうか。不謹慎にもそのように思ってしまう。 「氷雨殿、貴方は魑魅魍魎にとって言わば饅頭や団子のようなもの。無防備ではいずれ食われますよ」 「喩え話にそのようなことを仰るということは……蛍火殿は茶菓子が好きなのですか?」  知られたくない事実に気づかれてしまい、蛍火は羞恥で顔を赤くする。蛍火は甘味好きではあったが、次代である彼はそれをひた隠しにしていたのだ。 「ち、違います! 私は甘味など……」  蛍火は慌てて否定するが、図星であることは氷雨からは一目瞭然。氷雨は蛍火に目を細めて微笑んだ。 「今度お礼に饅頭か団子を持ってきます」  そんな氷雨の言葉に蛍火はただ恥ずかしそうに頷くしかなかった。  それから妖狐が目覚めるまで、氷雨は毎日蛍火の屋敷に通い続けては、妖狐の安否を確認しに来た。氷雨が屋敷に通う内にいつの間にか、氷雨と蛍火は友人となっていった。健気に妖狐の安否を気遣う氷雨の態度を見ていた蛍火は、妖狐を回復させなければと、親代わりの妖狐で薬師である桔梗の手を借りながら、白い妖狐の傷を癒していく。そんな蛍火と氷雨の介抱の甲斐もあって、深い傷を負った白い妖狐は目を覚ました。  白狐が目を覚ますと、そこには冷たい目をした少年と、意識を手放す間際に見た青い髪の少年がいた。 「貴様らっ………!」  俺を捕らえて何をするつもりだ。目の前にいる黒髪の少年の喉を噛み千切ろうとした時、少年は小さな声で奇妙な言葉を呟いた。 「オン キリキリ」 「なっ………!」  見えぬ縄に繋がれたように、動けなくなる。そんな俺を見下ろして、少年は口を開いた。 「やはりこやつは人を殺しかねないですね。氷雨殿、さっさと駆除致しましょう」 「蛍火殿それだけは………!」  氷雨と呼ばれた少年は、涙目で懇願する。蛍火と呼ばれた少年は、溜め息を吐くと此方を睨んだ。 「私は貴様など助けたくなかった。しかし氷雨殿がお前を助けてくれと言ったから私は貴様を助けたのだ。それでも貴様は私の喉笛を噛み千切りたいか」  自分の身体を見回すと、胴にはきっちりと白布が巻かれており、否応なしに助けられたことを自覚せねばならない。 「……すまなかった」  俺が謝ると、氷雨は安堵したように息をつく。それに対して蛍火は、厳しい顔を崩さなかった。 「分かればいい。しかし、これから貴様はどうする。人食いをするならこの場で殺すが」  この蛍火という奴は何と生意気なのか。今すぐこいつを噛み殺したくなったが、隣の氷雨が泣きそうなので我慢した。 「安心しろ、人の肉など数十年と食うておらん。……まさか俺に、お前らに従えというのか!」  何の成り行きで、この小童どもに付かねばならぬ。二人を睨み付けると、氷雨が申し訳なさそうな顔をした。 「仕方がないと思います。鬼祓いは人を害す物を祓うと聞きました。ならば、祓われないようにするには式神となるしかないかと」 「良い案ですね氷雨殿。ただしこの狐を式神にするのは貴方です」 「は?」 「……はい?」  俺と氷雨はあんぐりと口を開けるしかなかった。 「ちょっと待ってください蛍火殿! 僕は陰陽術の心得など……」 「そうだ! なんでこのひ弱そうな奴など……」  俺が氷雨をひ弱と言った途端、俺をぎろりと蛍火は睨んだ後、氷雨に微笑んだ。 「氷雨殿、貴方は無防備過ぎるのです。陰陽術を使えないのに陰陽師の血が流れているとなると力を欲する為に鬼や妖が貴方を狙うでしょう。今までにも狙われたことがありませんか」  そう言われて氷雨は思い当たることがあるのか、氷雨の顔が強張る。そんな氷雨を見て、蛍火はやはりと呟いた。 「こんな妖狐でも貴方の役に立つでしょう」  蛍火は俺に再び視線を向けた。 「貴様にとっても人に調伏されないで済むし、氷雨殿は優しい御方だ。悪い話ではない。……どうする?」  選択肢など無いようなもの。拒否をすればすぐに殺されかねないだろう。氷雨はともかく、鬼祓いという退魔師集団は人食いをする者に対して容赦が無いと聞く。それに次代ということは退魔師集団の次期頭領。実力もただの小童とは違うだろう。俺は仕方ないと舌打ちをした。 「僕の式神になってくれますか……?」  氷雨は泣きそうな顔で俺を見てくる。お前は仔犬か。そう言いたいのを堪えて俺は答える。 「氷雨とやら。お前の式神になってやってもいい」  氷雨は嬉しそうに微笑む。その瞳は、いつか見た大海原を俺に思い出させるのであった。こんな弱々しそうな奴だというのに、不思議と食らう気にはなれなかった。  それが俺と氷雨の初めて会話を交わした日のことであった。  それから俺の傷が癒えるまで、氷雨は懸命に俺の看病を行った。最初は警戒していたものの、この少年はお人好し過ぎて、今までよく死ななかったものだと感心したほどである。いつしか、この少年を放ってはおけないと思うようになっていた。  俺の怪我が癒えた日、氷雨の式神になるための儀式を行った。儀式の場所は、氷雨と蛍火の家が仲が悪いことを考慮して、人気の少ない寺であった、氷雨が主であるとこの魂に叩き込む為、氷雨に新たな名前を名付けられて血を一滴混ぜた御神酒を飲まなければならないらしい。面倒だが、狐の姿で飲むのも癪だ。人に化けると、氷雨と蛍火が驚いた顔をした。 「何だ。俺の外見が醜いとでも言うのか」  氷雨は首を横に振るとふわりと笑う。 「いいえ。僕にとって、今まで見たことも無いほど美しいです」 「そうか」  昔は聞き慣れていた「美しい」という褒め言葉なのに、氷雨に言われると何だか胸の内が掻き乱される。 「お前、子狐じゃなかったんだな」 「やかましい」  無神経な蛍火を睨み付けると氷雨が笑った。 「蛍火殿、そして白狐殿喧嘩はお止めください」 「なあ、氷雨。お前は俺にどんな名前を付けるのだ」  氷雨は考え込むような仕草をする。そして何か思いついたのか、ぱっと顔を輝かせた。 「では銀雪(ぎんせつ)と」 「捻りがないな」  俺が即座に言うと、氷雨は落ち込んだような顔をする。 「だが、気に入った」  単純であるが響きは悪くない。俺が小声で言ったのが聞こえたのか、氷雨の顔が明るくなる。まあ、何と純粋な童であろうか。銀雪は口元に笑みを浮かべてから、氷雨の血の入った酒を口に含む。  蛍火の言った通り、その血は甘美ではあったがこれは契約の為の物。これ以降は氷雨が許可しないと血は口に出来ないし……こんなお人好しの少年を傷つけるつもりなど毛頭ない。酒を飲み干してから、銀雪は氷雨の前で片膝を突いて微笑んだ。 「氷雨、俺の主になるからには強く賢くなれよ」 「はい……!」  眩しい程の無垢な笑顔に銀雪は一瞬で氷雨に心を奪われるのであった。

ともだちにシェアしよう!