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愛しい君とその赤子
お前と子を成すことはできないが、お前の子を守ることならできる
その2日後、氷雨と翡翠の祝言が上げられた。俺は2人に言われて三三九度を見守ることとなった。翡翠の花嫁衣装は美しく、氷雨の正装姿は凛としていた。閨では子供のような幼さと色子のような妖艶さがあったが、正装を身に纏えばそんなものはどこにも感じられない。それが少しだけ寂しく感じられた。そのせいであろうか。氷雨の式神として下ったあの日を思い出してしまった。
翡翠は晴子の呪具を使って黒髪黒目の姿に化けていたので、外見をとやかく揶揄されることはなかった。それどころか、龍神から嫁を頂いたということで、氷雨が想定したよりも親戚達が祝言の席で盛大に祝う。氷雨はいつもの穏やかな微笑みで対応し、翡翠も難なく氷雨の親戚達と話す。だが、祝言が終わった途端、2人とも疲れ果てたのか泥のように眠っていた。
「2人ともお疲れさん」
せっかくの夫婦となった夜だというのに初夜どころではない。寝息を立てて手を繋ぐ様子は子供のようである。
……そういえば、氷雨は女を知らない。むしろ抱かれる側しか経験したことがない。大丈夫だろうか。
「乙女と契りを結ぶのって用心しないと女側が痛いらしいからな……」
後で教えるべきだろうか。まあ女性役だったのだから、抱かれる気持ちが分かって良いのかもしれない。無防備な寝顔を晒す2人が風邪を引かぬように布団をかけてやる。
この2人の子供は一体どんな子供だろうか。まだ見ぬ子供の姿を想像して俺は月を見上げた。
「銀雪、私が女性と肌を重ねるなんて出来るでしょうか」
数日後予想はしていたが、やはりそんな悩みを相談された。
「俺がお前にした通り……いや男と女の身体の構造は違うか」
不安そうな顔をする氷雨を引き寄せる。
「まあ、翡翠も乙女だから一応いちぶのり等の潤滑油は用意しておくといい。あとは……」
氷雨の唇を指でなぞる。すると、氷雨は頬を赤く染めた。
「前戯は俺がしたような……例えば口吸いやら指でたっぷりと身体に快楽を与えて、本番に入ることだな。お人好しのお前だから大丈夫だとは思うが……初夜だからちゃんと相手の身体を気遣え。じゃないと愛想を尽かされるからな」
「はい……」
まあ俺も女を抱いたことなんて片手で数えられる程度だが。氷雨は納得したのか頷くと、俺に頭を下げた。
「銀雪、ありがとうございます」
「俺に頭を下げなくったっていいって……」
正直どうなるか不安だが、彼らの行為を見れば嫉妬のあまりとんでもないことをしてしまう。その夜、俺は本性に戻ると、氷雨の文机の下に潜り眠った。
次の日の朝、朝食の席にはどこかぎこちなく初々しい姿があった。2人とも僅かに頬を染めて会話が途切れ途切れになっている。
………氷雨、意外と上手いのだろうか。まあ女役を散々していたから、抱かれる側の立場が理解出来ているのだろう。そういや俺達の時も、次の日は気まずかったなあ。特に氷雨が顔を真っ赤にして下ばかり向いて飯を食べて……噎せたことを思い出した。と同時に、また氷雨がお茶で噎せた。
彼らの初夜が行われてから半年が経った。3人で夕飯を食べていると、突然翡翠が口元を抑えた。
「翡翠様、大丈夫ですか!?」
翡翠は青ざめた顔で首を横に振り、早足で厠に駆け出す。戻ってきた時も顔色は戻らず、氷雨も心配のあまり医者を呼ぼうかと話し出した時、椀の片付けを中断していた鈴が口を開いた。
「もしや……奥方様はご懐妊されたのでは?」
『かいにん?』
「子が腹にいると言うことですよ、翡翠様」
首を傾げる翡翠に氷雨が優しく教えると、翡翠の顔が明るくなった。
「一応、医者に診てもらいましょうか」
『はい!』
翡翠は嬉しげに笑った。
鈴の言った通り、翡翠は懐妊していた。翡翠は己の腹を見下ろして、撫でる。身重ではあるが、体調が優れないだけで外見からは身重だと判断しづらい。
『子が此処にいると言っても、いまいち実感が湧かないですね…』
「まあそんなもんだろ。動くのは腹が大分膨らんでからだぞ」
「ですが、身重となったからには安静になさってくださいね。私もなるべく早めに帰り、そばにいましょう」
『零月様、ありがとうございます』
翡翠は幸せそうに微笑んでいた。
だが翡翠の体調はここから悪くなっていった。悪阻が予想以上に重かったらしい。食欲が落ちてしまった翡翠に氷雨は滋養に良いとされる食べ物を買い漁っているものの、中々食欲は戻らない。悪阻で床に付く翡翠を休みの合間でさえ寄り添うようになった氷雨は風邪を引いて寝込んでしまった。
「馬鹿氷雨。お前が倒れてどうする」
「すみません、銀雪。あなたに迷惑をかけてしまって」
申し訳無さそうにする氷雨の額に絞った手拭いを掛けてやる。心地よさげに目を瞑った氷雨の熱い指を握ってやると、黙って絡めてくる。やがて寝息が聞こえると、俺は氷雨の頬に口付けをした。
「お前はしばらく眠っておけ。愛するお前が無理をする姿なぞ見たくない」
夫婦共々寝込んでしまったので、年増……いやかつて俺の怪我を癒した紅原の狐に頼み込んで診てもらうこととなった。
「蒼宮の旦那の方は過労、奥さんの方はかなり悪阻が酷いねえ。葛葉の姉御も悪阻が酷かったと言っていたから、人の子を孕むと悪阻が酷くなるのかもしれない」
女狐は仕事道具を漁りながら何かを取り出す。
「何とかならないのか?」
「弱い薬から試して行こう。あと体調の良い時は散歩ぐらいはした方がいい」
桔梗が目の前で薬を調合し始めた時、翡翠は泣きそうな顔をしていた。
『私のせいで零月様が……』
「お前のせいじゃないって…あいつは必死になりすぎるだけだ」
「そうそう、何てったってお前を担ぎ込んできた時はずぶ濡れだったしねえ」
にやにやと女狐は俺を見る。情けない姿を晒したことを思い出し、俺はそっぽを向いた。
「まあ、龍のお嬢さん。あんたが元気になることが、あの人間の幸せになる。くよくよするより、自分の身体を気遣いなさい」
翡翠は泣きながら頷いた。
女狐の薬の効果もあってか、翡翠は段々起き上がれるようになり、腹の子も順調に育っていった。
『銀雪様、ちょっとお腹を触ってみてください』
「はあ!? あんた人妻だぞ! 俺がそんなことしていいのか」
俺が動揺していると、翡翠はくすりと笑う。
『貴方は、氷雨様の大切な人だから良いのです』
「ではお言葉に甘えて……」
俺が恐る恐る触ると、腹の内側で何かが動いた。
「うわっ……!?」
俺が驚くと、翡翠はにこにこと微笑んでいた。
『ね? 動いたでしょ』
「ああ……。あいつとお前の子が此処にいるんだな」
まだその姿を見れるまで時間は長い。だからなのか息づいていることを感じただけで、目の奥が熱くなった。
『絶対、産んでみせます。だからそれまで待っていてくださいね』
「お前も腹の子も無事であることを祈っておくよ」
子を産む際の危険は高い。毎年数えきれない程の女が死んでいる。俺は翡翠の腹の中の子の存在を感じながら、目を閉じた。
やがて翡翠は臨月を迎えた。腹の子は無事に育っており、屋敷の者達が赤子の誕生を今か今かと期待している。だが翡翠の本性は龍だ。お産の時、本性に戻る可能性があるかもしれないということで、一旦龍神の社に近い山奥の別邸に移ることにした。
「白不浄など僕は気にしないからいいよ」
などと言って、翡翠の身の回りの世話を巫女に任せた。別邸の結界は龍神と青龍、そして蒼宮の初代が張ったもので強固なため、鬼祓いを呼ぶ必要は無かった。
「何かあればすぐに伝えますので、蒼宮殿は仕事に励まれませ」
「そうそう。私もいるから大丈夫だよ、蒼宮殿」
外見は十代後半ではあるが千年以上生きる巫女と桔梗にそう言われ、氷雨は渋々翡翠を別邸に置いていくことにした。
「本当に大丈夫でしょうか」
「大丈夫だと信じるしかないだろう。だが何かあったら馬より早い俺の脚で、お前を運ぼう」
「銀雪……ありがとう」
氷雨は柔らかく笑う。だが氷雨の手を何気なく掴むと、その指は不安で震えていた。
「氷雨、お前は相手を心配し過ぎるところがあるぞ。それはお前の長所だけど、それに引き摺られては身が持たない」
氷雨は頷くが今にも泣きそうな顔をしており、俺は氷雨を抱きしめた。
「大丈夫。俺がついている。俺の前では強がらず、泣いたり不満を吐いてもいいんだぞ」
すると氷雨は嗚咽を漏らし始める。俺は氷雨が泣き止むまでその背を擦った。
とうとうその日がやって来た。仕事が昨日の内に片付き、翡翠の元に行こうかと話していると、小鳥が飛んできた。
『翡翠様が産気付きました。今すぐお出でませ』
それは紛れもない巫女の声だ。はっと書物から手を離し、固まってしまう。そんな氷雨の肩に手を置いた。
「氷雨、今すぐ俺に掴まれ」
すぐに妖狐の姿をとって臥せると、氷雨が俺の背に跨がる。俺はあらんかぎりの力を込めて別邸へと駆けた。
別邸に着いた途端、地響きが鳴った。
「なっ……!?」
俺と氷雨が驚いていると、巫女が近づいてきた。
「翡翠様が本性に戻られており、このような地響きが……」
「翡翠様は大丈夫なのですか!?」
氷雨が問うと巫女は険しい顔をする。
「私には何とも……ですがお産は激しい痛みを伴うもの。蒼宮様は屋敷で妻子無事であるようにと祈られませ」
巫女はお産の手伝いに戻っていく。青ざめてふらついた氷雨を俺は支えた。
「氷雨、気をしっかり持て。ほら、秋也が半年前に安産の祈祷の術が書かれた文を寄越して来ただろう。今はそれを声に出して祈ろう」
「そうですね…」
本当は氷雨は翡翠の傍に居たいだろう。だが翡翠は、本性に戻って正気を失った場合、氷雨を傷つけてしまうだろうと、お産の時は決して傍に近寄ってくれるなと俺達に言った。それを破ることは出来ない。
氷雨は屋敷の部屋に入って、一心不乱にそれを読み上げる。地響きと咆哮が何度も鳴る中で氷雨と共に翡翠と赤子の無事を願うこと三刻。氷雨の声が枯れ始めて咳き込みそうになった時である。
赤子の産声が遠くから耳に響いた。
「っ……!?」
氷雨が息を飲んで立ち上がる。と同時に息を切らした巫女が障子を開いた。
「翡翠様の容態は!?」
「妻子共々無事です。翡翠様はお疲れの様子ですが、もう人型に戻っております。さあ蒼宮殿、此方に…」
足早に急いでとある一室に入ると、布団から上体を起こした翡翠と傍に座る桔梗の姿があった。翡翠の腕の中には白い布で包まれた何かがある。
『零月様、貴方の子ですよ。男の子です』
氷雨は目を見開くと、翡翠の傍に座りゆっくりとそれを受け取る。
「おめでとう蒼宮殿。君は今日から父親だ」
しばらく氷雨は黙ったままであったが、やがてその瞳が細められてゆっくりと息を吐いた。
「翡翠様、ありがとうございます。そして今までよく頑張ってくださいましたね。この子と貴女が無事で嬉しいです」
氷雨は優しげな瞳で翡翠と赤子を交互に見つめる。そして俺に視線を向けた。
「銀雪、子を抱いてみてください」
「俺が良いのか!?」
氷雨は勿論と頷く。赤子など抱き上げたことなど無いため、渋ったが氷雨の嬉しそうな顔が見ていると断れない。恐る恐る、おくるみに包まれた赤子を氷雨から受け取った。首が座っていないため、ふにゃふにゃと柔らかくて怖い。そんな俺の気も知らず、赤子はすやすやと眠っている。
赤子というが本当に生まれたばかりだと赤いのだな。そう何となく考えていると、不意に赤子の目が開いた。
「っ………!?」
固まる俺と赤子の目が合う。赤子は氷雨によく似た青い瞳をしていた。赤子は俺を見つめたまま黙っている。泣くのだろうか。やっぱり妖狐の俺は怖がられるのだろうか。そう怯えていると、赤子はふわりと微笑んだ。
「あ………」
俺は小さな声を上げてしまう。その時、堰を切ったように熱い物が顔を伝い落ちた。ぽたぽたと滴がおくるみを濡らし始め、そこで俺は自分が泣いていることを知った。
「銀雪どうしたのです!?」
驚いた氷雨が俺に声を掛ける。俺は自分が泣いている理由が分からず首を振った。
「わからない……でも悲しいとかではなくて……」
俺の子でもないのに涙が止まらない。赤子に掛かってしまわぬように俺が顔を赤子から背けると、氷雨が手拭いで俺の涙を拭った。
「銀雪、この子の幼名を付けてくださいませんか?」
「俺が……この子の……名付け親……?」
氷雨と翡翠の方を見ると、二人とも優しく頷く。
「貴方に名前を付けてもらおうと二人で決めていたのです。貴方もこの子の親のようなものですし」
俺は赤子と二人を交互に見る。名前は重要なもので子供に祈りを込めるもの。そんな大役を貰ったはいいが、中々浮かばない。ふと外を見遣るとある言葉が思い浮かんだ。
「この子の名前は………」
俺が名前を口にすると、赤子がまた柔らかく笑った。
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