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突然の別れ

いつか来るとは思っていたが、それが幸せの内にある今だとは思わなかった  愛しい氷雨とその妻の翡翠、そして夕霧との生活は温かな幸せの日々であったが、それが崩れる日が来ることなど忘れていた。随分昔に翡翠が言っていたとのにも関わらずだ。それは夕霧が秋也から術の教わるようになってから一年経ったころである。  翡翠と夕霧が二人で御伽草子を読んでいる屋敷の門を強く叩くものがあった。 「ここに外つ国の者はいるか」  その大声を耳にした途端、翡翠が顔を青ざめさせる。 「ははうえ?」  夕霧が不思議そうに翡翠に呼びかけると、翡翠は夕霧を隠すように抱きしめる。その指は震えており、声の主が怪しい者だと察した。 「翡翠、お前は夕霧と奥に隠れていろ。俺が見てくる」  翡翠が無言で頷いたのを見てから俺はしゃがんで夕霧の目線に合わせる。 「夕霧、お前が母上を守るんだぞ」 「うん」  不安ながらも頷いた夕霧の頭を撫でてから、俺は門へと向かった。門を僅かに開けると、そこにはいかにも怪しげな二人組がいた。古い布で身体を覆っているが、乞食という雰囲気ではなさそうだ。顔はよく見えないのも、何か理由があるのだろう。  その二人の魂の淀みが、兄と兄の恋人を手に掛けた者と似ている気がした。 「何の用だ、貴様ら」 俺が睨むと、二人は怯んだが、なおも口を開く。 「外つ国の者がいるかと聞いている。我々をその者に会わせてほしい」 「そんな者などいない。それにいたとしてもお断りだ。主の不在の今、敷居を跨がせることなど許さない」  よりによって、氷雨が近所にある藩の武術指南役である冬崎の元に行っている時に来るとは。俺は歯噛みをする。 「では、貴様を倒して敷居を跨がせてもらおうか!」  銀色にひらめくものが視界の端に入り、とっさに避ける。すると二人がかりで俺に襲いかかってきた。  二人の攻撃を避けながら、蹴りを脇腹に打ち込み、拳を溝内に入れる。 「なっ………!?」  それでも、倒れることなく襲いかかり、俺の髪が僅かに切られた。普通の人間なら倒れているだろうが!こうなったら骨を砕くか。俺は手加減を止め一人の腕を蹴りで折る。折られた者が踞ったので、死なない程度にとどめを刺そうとした時である。首に、何かが巻き付いた。 「あ"!?………っ……はっ………」  数珠のような感触が首に伝わり激痛が全身に走る。俺が呻きながら目を動かすと、もう一人の男は下卑た笑みで俺を見下していた。 「数珠が効くということは、こいつは噂の妖狐で間違いないな」  意識が薄れ始める中、自分が膝を着いたことを今更理解した。 「こいつも意外と見目がいいぜ。国に戻ってから見世物小屋にでも」  腕を折られた方の男が、部屋の中に入っていく。屋敷の者共は何処に行った。大きな音がすれば誰かが来る筈なのに………。 「っ……」  氷雨……ごめん。意識が闇に落ちそうになった時、空気を切り裂く音がした。 「がああっ………!?」  目の前の音が呻いたと同時に、首を締め付けていた数珠が解け、空気が一気に入ってきて思わず咳き込んだ。咳き込みながら男を見ると、男の肩には矢が深く刺さっている。 「我が(しもべ)に触れるな外道」 声の先に視線を向けると、氷雨が冷たい表情で弓に矢をつがえていた。その隣には、秋也に似た男が涼やかな笑みを浮かべている。 「おやおや? 江戸や出島にしか居ない筈の異人が何故こんな所にいるんだ? 藩主の膝元に入ることなど、許されていないよな?」 「ちっ………逃げるぞ」  男が矢を力ずくで抜いてそう言うと、二人とも退散していく。秋也に似た男……いやその弟の冬霞が二人を追いかけて行くが、氷雨は追いかけず、俺に駆け寄ってきた。 「銀雪、大丈夫ですか!?」  俺を覗き込む氷雨の顔は蒼白であった。 「ああ……何とか……」 氷雨が泣きそうな顔で俺に抱きつくので、その布越しの熱に安堵の息を吐いてしまう。俺は氷雨に背を撫でられながら目を瞑った。 「俺……は……」  気がつけば夜になっていて布団に寝かされていた。目だけを動かすと、傍には涙の跡が残っている夕霧が泣きつかれたように眠っている。 「夕霧ごめん」  起き上がって夕霧の頭を撫でていると、襖の動く音がする。襖の奥から氷雨の姿が現れると、俺の隣に座った。 「銀雪、調子はどうですか?」 「今は大丈夫だが。……俺は気を失ったのか?」  氷雨は頷く。その顔に血の気がなく、心配させてしまったのは一目瞭然であった。 「貴方はあの後に気を失って、冬霞さんに診てもらったんです。あれは異国の呪具だから起きるまではどうなるか分からないと……」  氷雨の指が微かに震えている。俺はその指を片手で包み込むと、氷雨を抱き寄せた。 「氷雨、俺はこうして起きたんだから、そんな顔をするなよ。それにお前が俺を守ってくれたんだろ?」 「ですが……!」  氷雨の声は泣きそうになっているので、俺は強く抱き締める。 「守る側が守られる側になるなんて僕失格だろうがな、俺はお前が駆けつけてくれて嬉しかったよ」  泣く寸前の氷雨と背を撫でる。氷雨の背は熱くて、いまだに俺を愛してくれることへの嬉しさが込み上げそうになった。  次の日に氷雨から聞いた話によれば、冬崎の屋敷で氷雨と冬崎と冬霞の三人で話をしていた所、嫌な悪寒がしたそうだ。そこで氷雨が冬崎から弓矢を借り冬霞と此処に戻ってきた所、あの場に遭遇したという。 「お前はあの龍神に可愛がられていて良かったな」 「そうですね。龍神様のお陰でしょうね」 ふと首に巻かれた布に手をやると、氷雨がその手を首から離した。 「銀雪、しばらくそれに触れたら駄目です。まだ首は癒えていないのですから」 「ああすまん」  慌てて首から手を離すと、薬を飲んだ。桔梗は人外の薬すら作れるそうで、十日分の薬を飲むようにと言われたのだ。俺が薬を飲み込んだ時、翡翠が部屋に入ってきた。 「何だ翡翠。俺は別に大丈夫だから夕霧の面倒でも……」 翡翠の顔が暗くて俺は言葉を途切れさせてしまった。翡翠は俺たちの傍に座ると、真っ直ぐと俺達を見た。 『零月様、銀雪様、もう時が来てしまいました』 「どういう……ことですか?」  氷雨の声が震える。ああ……言うな。それ以上は言ってはいけない。だが、残酷にもその続きが翡翠の口から紡がれる。 『私は貴方達を巻き込みたくなどありません。ですから私はこの屋敷を出ようと思います』  聞きたくもなかった言葉が声となった。 「この国は人でない者に一番寛容な国です。もし国を出たならば……」 『分かっています。ですが、零月様達にこれ以上の迷惑は掛けられません。あのような者達の狙いは私なのです。貴方達を守るためには傍を離れることが最良でしょう』  氷雨は、凍りついた瞳で翡翠を見る。それでも翡翠の決意は変わることなどなかった。氷雨は俯いた後、立ち上がると翡翠を抱きしめた。 「行かないでくれ。もう引き返せないほど僕は貴女を愛してしまったというのに……」  翡翠は一瞬目を見開くと、泣きそうな顔で氷雨の頭を撫でた。 『零月様、これが今生の別れではありません。だから……あの子と一緒に私が戻るのを待っていてくれませんか? 私の帰る家などもう此処しか無いのですから』  氷雨は俯いたままであったが、やがて翡翠を離した。 「貴女がそういうのなら、私はここでお待ちしております。ですが……あの子は貴女との別れを悲しむでしょう」  あの子とは夕霧のことである。翡翠もその事を懸念しているのか、顔を陰らせた。 「あの子は聡く、優しい子だ。変に考えて自分のせいで母がいなくなってしまったと自分を責めるかもしれない。別れを告げる前にしっかりと話していけ」  俺が忠告すると、翡翠はただ頷いた。 『夕霧、ごめんなさい。貴方を置いていかねばならないの』 「どうしてですか、ははうえ。ぼくは、ははうえとおわかれしたくないです」  子供は泣きそうな顔で母に抱きつく。母は悲しみを隠せないまま子供を抱きしめた。 『母は人ではないのです。それ故、母を狙う怖い人が夕霧や父を傷つけるでしょう。この間の銀雪様のように苦しんでほしくないのです』  子供はいやいやと首を振る。 「ぼくは、ははうえとちちうえとぎんせつとみなでいっしょにいたいのです」  子供の青い瞳からぽろぽろと涙が溢れ出す。母は子供の涙を掬うと、笑って見せた。 『夕霧が大きくなったらまた皆で一緒に暮らしましょう。それまで良い子で待っていてくれませんか』  子供はそれ以上泣くのを堪えると、頷いた。 「ぼくはよいこでいます。だから……かならずかえってきてくださいね。ははうえ」  翡翠と夕霧の最後の会話はそのようなものだった。  翡翠が人型を捨てて、何処かへ離れていくのを3人で見送った。夕霧は翡翠の龍としての姿を初めて見たため、穴が空くほどその姿をじっと見ていたが、母の姿が見えなくなると、声を上げて泣きじゃくった。夕霧を抱き締める氷雨もどこか苦しげで見ていられなくなった。

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