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愛しい人達とのひと時
日常を取り戻し始めた氷雨と夕霧との日々は、幸せであった。春の夜の夢の如く
年が明けると夕霧は藩校に通うこととなった。
「銀雪、藩校では隠形してしばらく夕霧の傍から離れないでくださいね」
「分かっているよ。だが氷雨、俺が傍にいない間は注意しろよ」
「はい」
いつも氷雨の傍に居たので、日中氷雨と離れることに不安と寂しさを覚えてしまったが、氷雨の命だし半分龍の血を引く夕霧が同じ年頃の子供に馴染めるか不安であったので藩校では隠形して見守ることにした。
藩校に通えば流石は氷雨の子。同じ年頃の子供達よりも賢さが抜きん出ていた。藩校の教師達も真面目で品行方正な夕霧をすぐに気に入ったようである。だが、このような秀でたものには必ず嫉妬を向けられる。教師達の目の届かない場所で夕霧がちょっかいをかけられた際は、俺がその悪餓鬼どもを驚かせると、餓鬼どもは悲鳴を上げて逃げていった。
「銀雪駄目だよ。あんなに驚かせたら」
「お前が大人しく抵抗しないからだろ。それにちょっと驚かせただけだ」
「ああいうのは気にしちゃ駄目だと父上が言っていたし、それに銀雪がお化けのように怖がられるのは嫌だもん」
「お前ってやつは……」
氷雨も俺が化け物と言われると謝ってたっけな。思い出して口角が上がってしまう。
「よし、今日は団子食って帰るか」
「そうだね。銀雪、父上の分のお団子も買うの忘れちゃ駄目だよ」
「分かってるって」
夕霧の頭をわしゃわしゃと撫でると、夕霧は嬉しそうに笑う。俺は夕霧の手を引くと、一緒に甘味処に行くことにした。
夕食の後には夕霧は1日の出来事を氷雨に話すのが日課になっていた。氷雨は微笑を浮かべながらも、一言一句聞き逃さないようにしている。今日も夕霧は色々なことを氷雨に話すと、氷雨は良かったですねと夕霧を撫でた。
「でもまだ友達が出来ないんです。父上、どうればいいでしょうか」
そう聞かれて、氷雨は苦笑した。
「焦る必要はありませんよ。私も夕霧と同じ頃は紅原殿くらいしか友達はいませんでしたし」
氷雨は夕霧を膝の上に乗せる。
「夕霧、もうすぐ別邸に花見に行きましょう。夕霧の気晴らしになるかもしれませんしね」
夕霧は目を大きく見開くときらきらとさせた。
「去年母上達と花見をした場所ですか!?」
夕霧はあの別邸が好きなようで期待の混じった顔で氷雨を見上げる。ええと氷雨は頷いた。
「そうですよ。もうそろそろ桜の見頃でしょう。だから夕霧は風邪を引かないように気をつけてくださいね」
はいと夕霧は大きく頷く。そんな夕霧を氷雨は目を細めて見下ろしていた。
夜になって夕霧を寝かしつけた後、氷雨と一緒に縁側で酒を飲んだ。月明かりが眩しい夜に桜吹雪が舞う様子は幻想的でありその美しさに溜め息が出てしまう。
「今日も龍神様がいらっしゃらなかったのは残念でしたね」
「そうだな。龍神に夕霧の姿を見せたのは赤子の頃であったし成長した姿を見せたかったな」
龍神は気にくわないが夕霧が優しく可愛らしい子供に成長した姿を見せて自慢したかったのは本当のことだ。後ろを振り返ると、すうすうと小さな寝息を立てて夕霧が眠っている。
「まだ母が恋しいでしょうに私達の前では強がるあの子を見ると胸が苦しくなってしまいます」
氷雨は痛みを抱えた眼差しで夕霧を見つめた。
「お前も翡翠が恋しくないのか?」
その問い掛けに氷雨は苦笑した。
「恋しくないと言えば嘘になります。私が心休まるのは貴方と翡翠と秋也の前だけですから。本来なら私が翡翠や夕霧、そして銀雪を守らなければならなかった。なのに翡翠は私達のためにと離れた。………自分が情けなくて今でも悔しくなる」
氷雨は月を見上げて酒を飲む。ほんのりと頬が赤いが、目は悲しげであった。
「ですが、またいつか皆で花見を出来る日が来ると信じています。その頃には皆を守れるように鍛練をしなければ」
刀の鞘を握りしめる氷雨の片手は僅かに震えていた。恐怖ではない。むしろ自分に対する怒りなのだろう。俺はその手に己の手を重ねた。
「そうやって何でも背負い込もうとするな。神ですら短所だらけなのに人間なんてそんな器用には創られている訳がないだろ」
氷雨は目を見開いたまま黙っている。そんな氷雨の手を握り締めた。
「大体お前は剣や弓の腕はあるが、そこまで持久力が無いだろ。江戸までの道中で何度も俺が背負う羽目になったし」
氷雨に言い聞かせるようにその細い身体を抱き締める。
「氷雨、俺はお前の式神だ。あの時は不甲斐ない姿を見せたが、俺はお前よりも強い。だから俺を頼れ。俺はお前の一部なのだから」
氷雨は恐る恐る俺の背中を撫でると目を閉じた。
「はい……そうでしたね。では頼らせていただきます」
「それでいい」
俺と氷雨は軽い口吸いをする。そして氷雨を押し倒すと、氷雨は泣きそうな顔で微笑んでいた。そんな氷雨の着物に手を掛けると……。
「零月、銀雪久しぶりだね。お取り込み中だったかな」
「げっ…………!?」
俺はゆっくりと声の方を見る。そこには龍神が笑顔で俺達を見ていた。俺達は慌てて離れた。
「龍神様、見苦しい所をお見せして申し訳ございません」
氷雨は瞬時に起き上がると片膝を付いて頭を垂れる。龍神は笑みを浮かべたまま氷雨に近づいてきた。
「いや構わないよ。僕も所用があって今帰ってきたところだ。留守にしてすまない」
龍神は穏やかな神気を放っている。どうやら怒ってはいないようだ。
「夕霧も見ない内に大きくなったね。もう学舎 に通っているのかい?」
「ええ。まだ通わせ始めたばかりですが」
龍神は夕霧の側に膝をつくと額を撫でる。
「人の方に近しくなったか。龍側に寄れば眷属としていたがそれは望まぬだろう?」
さらりと物騒なことを言う。氷雨は微笑を浮かべていたが、目が笑っていなかった。
「この子がそれを望まぬ限り、私は人の子として育てます。そうでもしなければ、人は人外の血を引くものにどこまでも残酷になりますから」
「それもそうだな。人は脆弱であれど、何処までも異端に残酷であるからな。同胞とすら殺し合いをする人間こそ恐ろしい者はいまいよ」
龍神の方は氷雨の眼差しに気づいていないように夕霧の髪に触れる。
「翡翠と会って来た。本当はお前に会いたがっていたようだが、まだ翡翠を追う者の目を気にして隠れている」
氷雨は目を見開くと、身を前に乗り出した。
「翡翠を追う者は何者なのですか。異国の者のように見えましたが」
「翡翠の一族の龍の血肉を狙うものだ。あの一族の血肉を食べれば不老不死になると言われており高値で売れるからな。実際は誇張でしかないが」
龍神は憂いを帯びた表情に変える。その指は月の光で光る夕霧の髪を惜しげに撫でるばかり。
「陰陽師どもにそのことを知られるなよ。特にお前の弟。あやつは忠実な土御門の家臣のような者。もし土御門に知られればお前の夕霧の見の安全の保証は出来ない」
重苦しい沈黙が流れる。氷雨にとって土御門は遠い存在。だが氷雨の弟は………。
「………承知しました。龍神様、もしもう一度翡翠に貴方様がお会いしたのなら伝えて頂きたいことがございます」
「何だ、言ってみろ」
氷雨は小さく息を吸うと、泣きそうな顔で笑う。
「『翡翠、いつまでも貴女を此処で待っている』そうお伝えください」
「分かった」
龍神は立ち上がると、俺の耳元にしゃがみこんだ。
「零月の顔に僅かに良くない相が出ている気がする。僕は陰陽師でもないから気のせいだと思うが、お前が守れ」
「龍神!? 一体どういうことだ!」
龍神が涼やかに笑うと、桜吹雪が龍神の姿を掻き消す。気がつくと氷雨の傍に数枚の青い薄氷のような物が落ちていた。
『何かあればそれを握って僕を呼ぶといい。さすれば何かしら訳に立つだろう』
龍神の響く声が止むと、青白く光る神気が雪のように屋敷をふわりと包む。そんな幻想的な風景を二人で黙って見ていた。
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