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守れなかった後悔

もしお前の傍に居てやれたならと、幾度も自責の念に潰されそうになる。  そして氷雨がこの国を出て江戸に向かう日となった。氷雨が奉公人達に別れを告げた後、俺と夕霧は門で氷雨を見送る。 「では行って参りますね、銀雪、夕霧」 「はい。帰りをお待ちしています」  夕霧は寂しいだろうが微笑みで誤魔化して見送る。そんな夕霧と氷雨は一時の別れの抱擁をした。 「夕霧のことは俺に任せておけ。……ただ身体には気をつけるように」 「はい」  氷雨は目を細めると、別れを惜しむように俺の手を握る。俺も一時的とはいえ、氷雨と離れるのが辛くて氷雨の手を強く握る。 「銀雪、頼みましたよ」  氷雨は手を離すと、参勤の列に入って江戸へと向かう。俺達は氷雨の姿が見えなくなるまでその列を見送った。 「父上、大丈夫かな……何だか嫌な予感がする」  夕霧が不安そうに俺の袖を掴む。 「大丈夫だよ。お前の父上は強い人なんだぞ。安心しろ」 「うん……」  それでも夕霧は不安そうに俺からくっついて離れない。この時の俺は夕霧の予感が当たることなど知らないまま、氷雨を送り出してしまったのだ。  最初の数ヶ月は夕霧は昼間も寂しそうな顔をしていたが、友達がしょっちゅう家に来てくれたからか、徐々に昼間は明るくなった。だが夜になると、父が恋しいのか俺に一緒に寝てくれとせがむ。俺は時には獣の姿だったり人の姿で夕霧を抱き締めて眠るようになった。寝ていても涙を流す夕霧を見ていると、胸が痛くなる。  氷雨の方は文によると元気にしていると書いてあるが、氷雨のことだ。強がってしまっている気がする。何せ江戸の喧騒が苦手で塾が休みの日は一切宿から出ようとしなかったのだから。確か塾の教師が氷雨を心配して落ち着いた料亭に連れ出してくれたっけなと文を見て思い出してしまった。  一年後にようやく此方に戻るとの文が来た。それに一番喜んだのは夕霧である。 「父上帰ってくるの!? やったあ!」  普段ここまではしゃぐことの無かったため、嬉しそうに文を抱きしめる夕霧を見て嬉しくなる。 「この一年で夕霧は背が伸びたしなあ。父上も喜ぶだろうよ」 「そうかなあ。喜んでくれるかなあ?」  そわそわとし始める夕霧を抱きしめると、氷雨を思い出すように俺の腕の中に顔を埋めた。  そして1ヶ月後に文が届く。それは普通の文ではなく陰陽師や鬼祓いが使う鳥の式文であった。訝しく思いながらも、俺と夕霧は文を開いてみる。その内容に背筋が凍りついた。  零月殿が神社の階段から突き落とされ、大怪我をしました。起き上がれる状況でもないので急いで銀雪殿には来ていただけると助かります                             それは秋也の弟からの文であった。夕霧は瞳を凍りつかせ、顔が青ざめている。 「今から氷雨の所まで行ってくる。念のために夕霧は紅原のあの男に預けるから大人しくしておけ」 「うん………分かった……」  俺は夕霧を紅原夫妻に預けると、文に書かれてあった国の旅籠まで駆け出した。  その日、泊まる予定であった本陣に着くと、殿は私や冬霞殿など少数の供を従えて神社に参拝することになった。残りの旅の安全を祈願する為である。殿は普通の侍の姿に扮しており、私達のことを気に留めるものは居なかったので楽であった。私は殿同様に旅の安全を願う。それだけではなく、銀雪や夕霧が息災であること、そして早く翡翠が我が家に戻ってきますようにと願った。 「でもまあ、殿にしちゃあ真面目ですよね。ついでに御守りでも買っていきます?」 「それもそうだな………と言いたいが、うちの所の神が不機嫌になりそうなのでな。遠慮しとくよ」  冬霞殿と殿は仲睦まじく話をしている。そういえばこの二人は、そういう間柄であった。二人の様子を見ていると、銀雪のことを思い出してしまう。 「早く二人に会いたい……」  ぽつりと言葉が零れる。江戸にいる時は忙しく喧騒に精神が疲労し、帰ってくると夕食を食べるのも忘れて眠る日が多かった。それでも一日も郷里にいる銀雪や夕霧、そして何処にいるかも分からない翡翠のことを忘れたことは無かった。  殿の江戸勤めが終わり、こうして江戸から故郷に近づくにつれ、家族が恋しくなってしまった。夕霧はどうしているだろうか。銀雪はどうしているだろうか。そんなことを寝る前に考えてしまい、涙で袖を濡らす日もあった。その度に夕霧と銀雪から貰った文で耐えてきた。だがもうすぐで会える。再会出来る嬉しさに胸が弾んでしまう。  その嬉しさを人に知られぬように、辺りを見回しながら気持ちを落ち着けようとした所、神社の参拝者の中に知っている顔があった。私はその人物の顔を見た途端、背筋が凍りつく。 「千鶴…………?」  間違いない。あれから十年以上経っているが、あれは千鶴だ。確信してしまう。千鶴は私の家に奉公していたものであり……両親を殺した仇だ。 「零月? どうした、呆けた顔をして。知り合いでも居たか?」 「いえ……何でもありません」  聞きたかった。何故私の父と母を殺したのか。私や銀雪に優しくしていたのは嘘だったのか。だが全ての問いを千鶴に投げてしまえば、翡翠や銀雪そして夕霧と過ごした幸せな時間を全て握り潰してしまう気がした。 「蒼宮殿、顔色が悪いですよ。早く帰りませんとね」  冬霞殿は私の傍に寄ると耳打ちする。 「蒼宮殿、何があったかは存じ上げませぬが、神社で刃傷沙汰は御法度。どうか柄に掛けた手をお離しください。さもなくば、この神社の主の怒りに貴方が触れましょう。悩み事があるならば、俺がお聞きします故」  気がつけば柄を掴んでいる。私には殺意という感情があったのか。それが恐ろしくなって柄から手を離した。 「殿、そろそろ帰りましょうか」  冬霞殿の言葉のままに殿が帰り始めると、皆も殿を警護するように周りを囲んで石段を下り始めた。私は最後尾で殿の背中を見ながら石段を下りる。 『お前は優しい子だ。仇討ちなど考えず、お前らしく生きよ』  父上の今際の際の言葉を思い出す。いいえ、私は優しくなどない。嫌われるのが怖くて父や皆の前ではそのように演じていただけ。親友や妻、愛しい子供や銀雪の前だけ優しい心であれたのだ。父や母の期待が苦痛でもあった。だが両親に注がれた愛情を無下に出来はしない。両親の仇が憎い。私の両親を殺したくせに、子供と手を繋ぎのうのうと生きている彼を許せない。そう思うことは悪いのだろうか。  考え事をすれば周りが見えなくなるのは私の癖だ。それを自覚していたのに、私は考え事をしてしまった。 「蒼宮殿逃げてください!!」 冬霞殿の叫びが聞こえた時には既に手遅れだった。 「零月様。申し訳ございませんが、先代のように死んでくださいませ」  懐かしい声が聞こえた次の瞬間、背中を突き飛ばされ、宙に投げ出される。身を捩って殿に当たらぬようにしたが、殿と冬霞殿は私の腕を掴もうとする。だが、ほんの一寸のところで指は空を掻き、二人に届かない。  私は咄嗟に後頭部を庇ったが、全身を石段に叩きつけられ苦痛が全身を痛めつけた。痛い、苦しい、助けて。ばきばきと骨が折れる振動を味わいながら心の中で何度も銀雪の名を呼ぶとようやく止まった。身体は動かず、目を動かそうにも視界は真っ赤で歪んでいる。 「――――!!」  誰かが何かを叫んでいるが言葉として理解できない。何を言っているのだろうか。 「銀……雪……夕………霧」 死にたくない。皆に会いたい。銀雪に会いたい。銀雪……ごめんなさい。不甲斐ない主で。意識を失う直前、銀雪が私に眩しい微笑みを向ける幻が見えた。  男は追っ手を振り切ると、待たせていた子供を迎えにいった。 「ととさまどうしたの?」  風車を持った子供が男に問い掛ける。男は子供に微笑んだ。 「厄介事を片付けただけだよ。さあ帰ろうか、源吉」  男は、かつて仕えていた家の当主となった零月を石段から突き落とした手で子供の手を握り、家路につくのであった。  俺が氷雨のいる宿に着くと、すぐさま氷雨の霊力を感じる部屋へと入った。氷雨は眠っているのか、目を閉じて布団で横になっている。一瞬、最悪の予感が頭を過ったが寝息が聞こえたのでその考えは霧散した。だが……。銀雪は包帯の巻かれた氷雨の頭を撫でる。一体どれだけ痛い思いをしたのだろう。それを考えるだけで、胸がずきずきと痛んで苦しい。 「氷雨………」  震える声で名前を呼ぶ。すると氷雨の目蓋が震え、ゆっくりと青い瞳が顔を覗かせた。 「銀……雪……?」  微かな声で名前を呼ばれる。その途端、目が熱くなって堰を切ったように涙が流れ出した。何度顔を拭おうとも涙が止まらなくて息が出来ない。 「氷雨……ごめん……お前を守れなくて……」  ここまで来る間、俺の魂を縛る氷雨の契約の糸が今にも切れそうで怖かった。契約が切れるということは、主の命が尽きたことを示す。式神に下ったばかりの頃、秋也に言われてたそのことが何度も頭に蘇り、過呼吸になりかけた。夕霧を守ることは当たり前のことだ。だがそれよりも氷雨を喪うことの方が怖くて顔を見るまでは安心できなかった。そのせいか、緊張の糸が切れたのだ。嗚咽を漏らす俺に、氷雨は片手で俺の頭を撫でる。 「私の方こそ……ごめんなさい。心配をかけてしまって」  俺が落ち着くまで間、氷雨は黙って俺の頬を撫でていた。袖から覗くその腕は布で幾重にも覆われて痛々しいことこの上なかった。  冬霞によると、氷雨は片腕と両足と他数ヶ所の骨折、転げ落ちたことで出血も多かったという。下手をすれば頭を打って亡くなっていただろうが、幸いにも咄嗟に受け身を取れたことで頭の怪我は出血の割には少なかったという。だが………。 「左足の損傷が激しくて、もう以前のようには動かないかもしれない」  暗い面持ちの冬霞。冬霞が悪い訳でもないが、苛立ちを向けたくなってしまった。 「氷雨……落とした奴は誰だ」  氷雨は気まずそうに俯く。反射的に唇をぎゅっと引き結んでいたが、俺の視線に負けたのか口を開いた。 「見ていないので分かりません……。ですが、あの声は……千鶴によく似ていました」  あの裏切り者。氷雨の両親だけでなく、氷雨を亡き者にしようとするとは。 「千鶴を探し出す。あの男は罪人だ。命を奪おうが問題あるまい」  殺してやる。俺が立ち上がろうとした時、氷雨は俺の袖を掴んだ。 「どうか……それだけはやめてください」 「しかし……!」  仇は討たねばなるまい。なのに何故止める。氷雨の腕を振り払おうとしたが、腕を覆う布が血で滲んでいるのを見てしまい、動けなくなった。 「人を殺せば貴方は穢れてしまう。私は貴方の純白の毛を汚すことだけはしたくない!」  どこまでも俺や夕霧、翡翠のことばかりを思う氷雨らしい。俺は肩から力が抜けると、氷雨を抱き締めた。

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