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傷は癒えず

癒えぬ傷を抱えた主を支えることが俺の使命だ  氷雨が起き上がれるようになってから、本性となって氷雨を背に乗せて、ようやく家に帰ることが出来た。夕霧を迎えに行くと、夕霧は驚いて固まる。 「夕霧、遅くなってすみません。よく一人で頑張りましたね」  氷雨が夕霧を抱き締める。たちまち夕霧の瞳が潤んだ。 「父上……父上っ……!!」  夕霧はぼろぼろと涙を溢ししゃくりあげる。夕霧が落ち着いて息が出来るようになるまで氷雨は夕霧の背を擦っていた。 「夕霧君は良い子でいましたよ」  晴子は目を細めて夕霧を見ている。その目と翡翠が夕霧を慈しむ目を重ねてしまいそうになった。 「晴子、お前は大丈夫なのか?まだ幼い子供を2人里に置いてきて」  晴子は柔らかく微笑んだ。 「大丈夫ですよ。面倒を見たと言っても、一日おきに里に帰っていましたし、時雨と楓が末の子である桃香の面倒を見ていますので」  そうは言うが、幼い子供達が心配であったと思う。晴子や秋也には感謝をしてもし足りない。紅原夫婦に頭を下げてから帰る。紅原夫婦は俺達の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。  3人で夕暮れの道を歩く。杖をついて歩く氷雨に寄り添い、夕霧と手をつなぐ。何故だか涙が出そうになった。  片足が不自由になってから、氷雨は夕霧を友人である冬崎の道場へ通わせることにした。そして自らも弓術の稽古を指導し始めた。 「そう、上手ですよ夕霧。弓はもう少しこの角度で持ったら良いでしょう」  蒼宮の屋敷には小さな弓術の稽古場があり、最近は矢が的を射ぬく音が聞こえる。俺は稽古の様子をぼんやりと見ていたが、稽古をしている時の氷雨の顔にいつもの余裕が無いような気がした。  夜になると、夕霧は疲れたのかすぐに眠ってしまう。最近はいつもこうだ。大体藩校でも座学が多く、実技は少ない年頃。その上、急に武術をつければ馴れていない夕霧が疲れるのは当然だろう。俺は肩がはみ出ていた夕霧に羽織を着せると、縁側に座って酒を飲んでいる氷雨の横に座った。 「なあ氷雨。どうして急に夕霧に稽古をつけるようになったんだ? 夕霧は優秀だが……最近は疲れぎみの気がするぞ」 「そうですか…。確かに、私が焦りすぎて夕霧に無理をさせてしまったのやもしれませんね。少しは稽古を減らしませんと」  盃を満たす酒が風に靡き、盃の月が揺れる。徳利を持ってみればずっしりと重く、酒がいつも以上に進んでいないようだ。 「氷雨、どうして焦っているんだ。話してみろ」  氷雨は目を瞑って俯く。そしてぽつりぽつりと話し始めた。  「私は翡翠から夕霧を預かったというのに、このように不自由な身体となってしまった。そんな私が出来ることは、夕霧に己を守る術を身につけさせること。一度くらいならば夕霧のために命を落とせますが、人は一度死ねば生き返れない。いつ私が死んでも良いように身につけさせたかったのです」  それは実の両親を喪ったからこその考えだろう。現に氷雨は父親から厳しい弓術の稽古と学問の指導を受けていた。そのお蔭で、両親が死んでも氷雨は立派な当主として成り立つことが出来た。自分の意思で親族から勧められた縁談を全て断っても不自由していない。 「夕霧や氷雨には俺がいる。お前が必要以上に急くことはない」  氷雨の身体を抱き締めると、氷雨は顔を覆って肩を震わせた。 「ですが…私のせいで貴方や夕霧が犠牲になるのは嫌です。これ以上不幸が起こってしまうのが怖くて焦ってしまう。ごめんなさい……」  氷雨が怯えるのは、千鶴のせいだ。千鶴が早く捕まればいいが、中々行方すら手掛かりがない。何故氷雨を狙ったのか。その理由すら分からないのだ。 「銀雪…もし私に何かあったら、夕霧を守ってくれると誓ってくれますか?」 「ああ、勿論だとも。たとえこの命に代えても」 「貴方の命を簡単に投げ出さないように。ずっと夕霧の傍にいてくださいね」 「承知した、我が主」  氷雨は潤んだ瞳で微笑むと、俺の耳元である言葉を呟く。俺が驚くと氷雨は笑った。 「それが夕霧が元服した際の名前です。貴方が初めに呼んであげてくださいね」  俺は頷くと、氷雨の額に口付けをした。  神無月が終わってすぐのこと、俺は龍神がいる山に登った。 「おい、龍神!! いるんだったら返事をしやがれ!」  すると龍神が何処からともなく姿を現した。 「何だい騒がしい……」  龍神は不機嫌そうに俺を見据える。俺は腹立たしくて、龍神の胸ぐらを掴んだ。 「氷雨が階段から突き落とされて足を悪くしたんだよ!どうして貴様は氷雨を治しに来ない!!」 「何……!? それはいつのことだ」  本当に知らないのか!? 神のくせにと言いかけたが、それ以上を言えば一線を越えてしまうだろう。俺は唇を噛んで己を落ち着かせた。  「以前から思っていたが……もしや氷雨だけでなく蒼宮の声が届いていないのか」 「いや、そんな筈は……。朝晩の祈祷は届いているし……」 普段は余裕の表情を見せる龍神が青ざめた顔になっている。本当に知らなかったのか。以前も龍神は氷雨の両親が亡くなったことを知らなかった。ならば神との繋がりを意図的に断たれたのか? そんなことが出来る人間は、陰陽師か鬼祓い……そして呪術師ぐらいだ。 「とにかく来てくれ。あんたなら氷雨の足を治せるかもしれん。どうか……お願いだ」  藁にでも縋りたい気持ちで龍神の瞳を見た。龍神が悪いわけではない。むしろ神に八つ当たりをすることなど、万死に値すると理解できている。だがこの気持ちを止めることなど出来なかった。  龍神は不敬にも天津神である自分の胸ぐらを掴んでいる妖狐を見た。零月が翡翠と夫婦になっても、零月を愛し、翡翠を守ろうとし、夕霧を我が子のように愛する狐。そんな狐の首を刎ねることなど出来はしまい。 「今宵、蒼宮の屋敷に来る。零月に起きて待っているように伝えて」  龍神が銀雪にそう告げると、銀雪はゆっくりと龍神の胸ぐらから手を離した。龍神は目を細めると、本性の姿に戻り空を駆け上がる。銀雪は膝を着くと、それを無言で見送っていた。  そして宵の刻となった。夕霧を寝かしつけた頃に夜空が眩くなったと思うと、龍神が姿を現した。 「お久しゅうございます、龍神様」 氷雨が礼をすると、龍神は痛みを感じたような顔になった。 「零月……すまなかった。お前が痛い思いをした時に助けてやれなくて」 氷雨がはっと顔を上げると、龍神は氷雨の傷ついた足を撫でる。表面上は傷は塞がったというのにまだ苦痛を感じる氷雨は、うっと呻いた。 「まだ痛むようだな……よりにもよって呪詛を埋め込まれているか」 苦い顔をする。もしかしたら治せないのか!? 俺は血の気が引いた気がした。 「まさか神ですら治せないのか?」 「神はな呪詛を穢れ以上に嫌う存在だ。それに全知全能ならいざ知らず、限界はある。出来る限りの力は尽くそう」  龍神は指先に神気を込めると、氷雨の足の状態を調べ始めた。 「少なくとも鬼祓いの呪法でないのは分かるけど……何だこれは……蟲毒? まさか……大陸のか……気持ち悪い……」  龍神の指が白くなる。龍神はしばし考え事をするような仕草をすると、氷雨の刀に触れた。 「龍神様何を……!」  龍神は自らの髪に氷雨の刃を当てる。そして俺達の目の前でバッサリと蒼く清らかな髪を切り落とした。  龍神は切り落とした長い髪を氷雨の足首に巻きつけると、髪は眩く光り形状を変えた。青水晶を削り加工したかの如き形。水晶の足輪は薄く青い光を放っていた。 「零月、立ってみなさい」  龍神は氷雨の手を掴むと立ち上がらせる。氷雨はゆっくりと立ち上がって、龍神に手を引かれるまま足を動かす。すると、いつも引き摺っていた足が健常だった頃のように動く。その様子に俺と氷雨は驚いた。 「龍神様……足が……!」  嬉しさに顔を綻ばせ涙を浮かべる氷雨に龍神は目を細めた。 「良かった。流石に私の髪ならば効力があるようだね」  龍神は切った髪が気になるのか、頭の後ろに片手を伸ばす。 「だが、お前を狙うものが多いだろう。夕霧が元服するまでは外に出るときは杖を使って、怪我が治ってない振りをしなさい。あと、その足輪を私が良いと言うまで外してはいけないよ。分かったね?」 「はい、ありがとうございます。このご恩は必ずや返します!」  嬉しさで瞳を潤ませる氷雨の姿に、龍神は嬉しそうに笑う。まるで子供を見る父親の眼差しである。 「別にいいよ。しいて言えば、巫女に似合う反物と御神酒を奉納してくれれば嬉しいかな。じゃあね、我が子」  本性に戻ろうとして龍神の姿が燐光に包まれた時、氷雨は慌てて懐の中から御守り袋を出した。 「龍神様、貴方様から頂いた鱗のお陰で私は九死に一生を得たのです。あの時、助けて頂いたも同然と思っておりました。ありがとうございました」  御守り袋の中には割れた鱗。そういえば冬霞が、氷雨は骨が臓腑に刺さってもおかしくなかったのに、全く刺さっていなかった上、頭の打ち所は悪くなかったと言っていた。その理由はこのことだったのかと銀雪は悟る。龍神も瞠目した後、安堵したような顔をして去っていった。  龍神が去ると、氷雨は泣きそうな顔で俺の腕の中に飛び込んできた。 「良かった………もう治らないと諦めてたんです」 「俺も嬉しいよ。夕霧も明日喜ぶだろうな。………春になったらまた3人で山に行こうか」  氷雨をぎゅっと抱きしめる。さらさらと蒼い髪が月の光を反射して輝いている。 「ええ……」  氷雨は顔を上げると俺に唇を重ねる。俺は受け入れるとその髪を撫でた。そして蓐に入ると、久々に身体を重ねた。  夕霧は氷雨の足が動くようになったことを知ると、我がことのように喜んだ。 「父上、また一緒にお出かけ出来ますね」 「うーん。ごめんなさい、夕霧が元服するまでは無理です。龍神様から足を治す代わりに足を痛めた振りをしないといけないと仰せつかっていますので」 「そうなのですか………」  しゅんと落ち込んだ夕霧を腕の中に引き寄せて氷雨は微笑む。 「屋敷の外は殆んど無理ですが、別邸ならば夕霧と釣りをしたりして遊ぶことは出来ますよ。春になったら銀雪と夕霧と私の三人で行きましょうね」 「はい!」  夕霧は無垢な笑顔になる。夕霧がそんな顔をするのは久しくなかったので、俺は目が熱くなってしまった。  氷雨が十歳になった年の如月、秋也の方から夕霧と秋也の娘との縁談の話が持ち上がった。

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