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悲劇の幕開け

神の居ぬ間に悲劇の幕が開ける  神無月に入って、氷雨は家で住み込みで働く下女達に神無月の間だけという条件で暇を出すことにした。勿論下男にも出そうとしたのだが、氷雨の両親の件を知っている下男が多かったので、皆氷雨のことを心配して暇を出されることを拒んだのである。 「俺達は旦那様に恩義がある。普段我々に優しく接してくださる旦那様をどうして放っておくことが出来ますか」 「ですが、死ぬかもしれないのですよ。私は今まで真面目に働いてくれた貴方達には死んでほしくないのです」  すると若い下男は笑った。 「なに、俺達は侍のように刀を振り回すことは出来なくても、石でも迎撃しましょう。石でも十分な武器になりえるのですよ」 「………本当にありがとうございます」  氷雨は震える声で下男に微笑んだ。  下女でも拒んだ者がいる。それは夕霧の子守りをよくしている鈴の娘であった。 「嫌です。あたしは坊っちゃんの傍にいたいのです。それに坊っちゃんはあたしがいないと、寂しがるのですよ! どうしてお暇など出されるのですか。あたしは銭など要りませんから、坊っちゃんのお側にいさせてください」  悲痛な言葉を放つ鈴の娘を、氷雨は説得しようとした。 「神無月の間だけです。霜月になれば戻ってきてくださって構いませんから………どうかお願いします。貴女に何かあれば鈴さんに申し開きが出来ません」  それでも納得しなかったが、他の下女にも説得され、渋々鈴の娘は近所の甘味処で働くことになった。  龍神は出雲へと向かう前に、氷雨の顔を見に来た。その時、夕霧は藩校にいたので、龍神は少し残念そうだった。 「これより暫くは、この家に異変があっても気づくことが出来ぬ。だがそれでもこれを握って念じれば、神々の言葉を無視してでもお前の元に駆けつけよう」  渡されたのはあの時と同じ形の鱗。二枚重なったものを受け取った。龍神が去ってから震える手でそれを握りしめる氷雨。そんな氷雨を抱き締めると、氷雨は俺の腕の中に顔を埋めた。  夕霧が帰ってくると氷雨はそれを夕霧に一枚渡し、小刀を渡した。 「夕霧、何かあったらこれを握って念じなさい。龍神様が助けてくださるからね」  夕霧は不安そうな顔で頷くと枕元に置いて眠るようになった。  そして氷雨と肌を重ねた七日後、夜更けに水晶を割るような音が外から響いた。俺はすぐに立ち上がると、氷雨も刀を手に取り外に視線を向ける。ただ何も状況を理解できていない夕霧だけが混乱していた。 「旦那様、外に不審な者共が見えました!」 あの若い下男が小声で言うと、氷雨は険しい顔をした。いつの間にか火矢を放たれたのか、火の光が外に見えていた。  「用意しておいた石を投げてください。それと負傷者がいれば、裏門から逃げるように指示してください。裏門は紅原が隠蔽の呪を掛けてくださいました。そこからならば逃げられる筈です」 「分かりました」  下男が頷くと去っていく。氷雨は此方に視線を向けると笑った。その手には秋也の呪符と夕霧の髪がある。 「銀雪、貴方は夕霧を連れて逃げてください。私は夕霧の身代わりの式を使って敵を引き付けます」 「…………は?」  氷雨の言葉を理解するまでに時間が掛かる。ただ外のめらめらと燃える火の音が煩かった。 「氷雨っ……あの時俺がお前を守ると言ったよな……それを忘れたのかっ!!」  死にたくないと涙を流すお前を抱き締めた時、氷雨を守ると誓いを立てた。なのにそれを無下にしようというのか。詰め寄るが、ただ氷雨は人に見せるような繕った笑みを見せるだけ。 「忘れてなどおりませんよ。貴方の言葉は嬉しかった。……貴方の誓いを水泡に帰してしまうことを許してください」 「死にたくないのではなかったのか」  氷雨はただ困ったように微笑む。 「死にたくないですよ。ですがそれ以上に貴方達には死んでほしくないのです。貴方達の為ならば、私は命を賭すことができる」  氷雨は刀の鯉口を切った。手入れ以外で抜いたことの無い刀は龍神の神気が籠められたもの。だがそれが通用するかは分からない。 「大丈夫。私はこれでも冬崎殿に勝ったことがあるのですよ。敵を追い払ったら、貴方達を迎えにいきます。ですから鬼祓いの屋敷に向かいなさい。そして鬼祓いを呼んできてください。お願いします」 「お前を置いてなどいけな………」  不意に心の臓を掴まれた心地がして氷雨の顔を見ると、氷雨の手には先程とは別物の呪符が握られており、氷雨の霊力を帯びていた。 「幼い頃、秋也から渡されてたんです。何かあったら貴方に強制的に命じることが出来る呪符を……」  氷雨の手の中で呪符が光る。 「氷雨………!!」 「命令です。銀雪、夕霧を連れて私の前から去りなさい。そして今から夕霧が貴方の主です」  俺の叫びも虚しく、氷雨の冷たい声が響く。俺の意思に反して、身体が勝手に夕霧を抱きかかえ、駆け出した。 「父上__!!嫌だ、嫌だ、父上っ……!!」  夕霧の叫びに零月は目を瞑った。本当はあの子の元服を、楓殿との祝言を見たかったが、叶えられそうにもない。零月が身代わりの符を落とすと夕霧と寸分違わぬ式紙が現れた。血飛沫も肉片も再現出来るらしく、見抜けぬであろう。 「夕霧、銀雪ごめんなさい」  零月は一言呟くと、障子を開ける。その途端、斬りかかってきた敵を無表情で斬り殺した。目の前には二十名程の黒衣の敵がいる。秋也の部下とは霊気が違うことに零月はどこか安堵していた。 「蒼宮当主、蒼宮零月が相手を致しましょう。我が子を奪いたければ私を倒してからにしなさい」  敵が一斉に襲い掛かる。零月は冷酷な表情で相手をした。  斬って斬られて血肉が飛び散って。零月は初めての人殺しに感情が麻痺していった。相手は私が足が不自由だと思っていたのだろう。その意表を突けたので十名程は容易く斬り殺せたが、残りの十名に苦戦をしていた。 「子供は襖の奥にいる!さっさとそいつを殺せ!!」  良かった。騙せたようだ。零月の目に暗い光が灯ると、二名を斬り捨てた。血がかなり流れたのか、立っているのもやっとである。それでもここで殺さねばならぬ。零月は柄を握り締めた。 「っ……」 やっと全員殺せたようだ。零月はふらつく身体で壁に凭れた。周囲を見下ろすと、長年仕えていてくれた下男の死体があった。ゆっくり近寄ると、膝を突いた。 「申し訳ございません……」  自分のせいで死なせてしまった。零月の瞳から涙が溢れる。 「油断大敵ですよ、氷雨様」 「はっ………」  貧血状態のせいで背後の気配に気づけなかった。声が耳に届いたと共に、零月の身体を冷たい痛みが貫いた。    支えるものなど何もなく、零月の身体が雪に沈む。鼓動が鳴る度に身体が冷たくなるのを感じた。 「いや、お見事でございました。そのお子様の偽者も随分と精巧な作りで…」  夕霧の偽物は千鶴など目に入らぬとでもいうように私の傍に駆け寄ってくる。千鶴はそれを斬り倒して見せた。偽物は悲鳴を上げて踞る。もしこれが我が子であったらぞっとする。 「偽物でもまあなんと素晴らしい親子愛。仲が睦まじいもので。今から本物を殺しましょう。貴方の目の前で内臓を引き出して差し上げる」 「何故……私達に憎悪を抱く……」 「憎悪?そんなものなど抱いていませんよ。貴方の両親も貴方も優しく清らかな人間でした」  千鶴は私の目の前にしゃがむと、私の前髪を掴んで嗤う。 「清らかな物を穢すのは、何とも気持ちが良いんですよ。特に貴方。死の間際に人殺しの罪を負う姿は美しかったですよ。貴方のような人間が地獄に落ちる様を想像しただけで笑いが止まりません」  千鶴はおぞましい嗤い方をすると、塀の向こうに視線をやった。 「しかし貴方の式神と貴方の子供を探さねばなりませんね。薄氷様はとりあえず息子を連れてこいと仰っていましたが、自害したと言って死体を献上すればいいでしょう」  私が立ち上がれないとでも思っているのか、千鶴は背中を見せている。  何とも舐められたものだ。私は唇を噛んだ。こんなやつを生かしておいてはいけない。我が子と銀雪の幸せを願うならば。  龍神様……私に力を…… 「さて私の部下は亡くなりましたが別に些末……ぐうっ……!?」  千鶴が振り返った瞬間に千鶴の腹に刀を刺すと、地に押さえつけた。 千鶴が悲鳴を上げる中、体重をかけて動かないようにする。 「貴様が言う通り……私は地獄に落ちるだろう。だが……貴様を道連れにしてやる……!! 我が子と我が式神に触れさせはしない……!」  刀に力を込めると、刀に眠っていた龍神の神気が眩い光を放ちはじめた。 「我が肉、我が血、我が息は力は龍の物なり。我が崇めし龍の威光を以てあらゆる穢れを清めん!」  人殺しの業を負ったというのに、龍神様は応えてくださった。龍神様……ありがとうございます……。零月は仇の断末魔と共に意識を失った。  気がつくと、樹の根本に凭れていた。 「零……おいしっかりしろ……!」 顔を上げると、我が友が泣きそうな顔で見下ろしていた。顔が真っ青になっている。 「秋……也……銀雪と夕霧が……貴方の城下の屋敷に……向かわせ……」 「分かった。すまないが早急に屋敷との確認を。一刻も早く彼らを保護せよ」 「承知」  秋也が背後の部下に命じると、部下は風のように駆けていく。それに安堵したせいか、血を吐いてしまった。 「零……目を瞑ろうとするな……。大丈夫だ……何をしてでもお前を生かすから……」  秋也の手が震えている。我が友のことだ。きっと己の命を対価に私を生かそうとするだろう。そんな自分を蔑ろにするところが少し嫌いだ。貴方だって愛されているのに。今の私が言えたことではないが……。 「秋也……貴方の天命を曲げてまで、私は生きたくはありません。」  秋也は唇をわなわなと震わせて俯くと小声で問うた。 「どうして……銀雪と共に戦わなかった。銀雪はお前を愛していたではないか」  理由は色々ある。逃がすことが最善の結果であったとか、夢見の内容などとか。ただ一言で言うのなら。 「だって……銀雪に人殺しの罪業を負わせたくなかったんです。愛しい銀の雪を血に染めてはならない。契りを結んだ夜に私は自らに誓ったんです」  友は目を見開くとぽつりと呟いた。 「愚か者……」  友の瞳から涙が溢れる。友が優しい人だと知ってはいたが涙を流すとは思わなかった。私は友の涙を指で拭う。 「秋也……最悪なこと言いますが、貴方の手で介錯していただけませんか?」 「人殺しなど数えきれぬ程にやっているから構わない。だが……何故?」 「仇の手で殺されるくらいなら、私は友の手で死にたい」 「まったく、それが友に対する最後の頼みか……」  秋也はしばらく俯いて唇を強く噛み締めた後、悲しそうに微笑むと刀を取り出した。 「安心しろ。痛みなど感じる間もなく死ねばいい」 「ありがとうございます。……秋也、夕霧と銀雪をお願いします」  秋也は頷くと零月の命を絶った。死の間際に脳裏に浮かんだのは翡翠と夕霧。そして愛しい銀雪の笑顔。 「銀……雪……」 痛みも恐怖もない末期。零月が口にしたのは愛した妖狐の名であった。 「零。友人にこんなことを頼むお前は本当に酷い人だ」  秋也は、かけがえのない友人の遺体を掻き抱いていた。遺体はまるで眠っているかのように穏やかで幸せそうな顔をしている。遺体を見下ろす秋也の頬に止めどない涙が流れ、雪を濡らした。

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