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悲劇

この身全てを捧げても  家から鬼祓いの屋敷までは、少し距離がある。俺が夕霧を抱えて駆け出す中、夕霧は俺の腕から抜け出そうと必死に抵抗していた。 「銀雪、離して……! 父上が……父上」 「あいつは藩でもかなりの腕前だ。簡単にはくたばりはしない」  己に言い聞かせるように夕霧の耳に囁く。こうしている間にも、刻一刻と氷雨との契約の糸が薄れていく。氷雨に背を向けて走る足の何と重いこと。俺はぎりりと奥歯を噛むと、紅原の屋敷に向かった。  どれくらい経ったであろうか。不幸中の幸いは追っ手の足音が聞こえぬこと。紅原の屋敷の屋根が見え始めた時、急に目の前に黒衣の数名の者が現れた。 「くっ……」  追っ手なのか!? 俺が後方に避けると、黒衣達は皆片膝を着いた。 「蒼宮の嫡男殿と当主の式神殿、頭領の命令により参りました。私どもに着いてきてください」  口を開いたのは女の声。よく澄まして見ると、霊力は鬼祓いの者であるし黒衣も見慣れた衣。 「紫花殿……?」  夕霧の知り合いなのか夕霧が恐る恐る名を呼ぶと、女が微笑んで頷いた。 「はい、紫花にございます。お久しゅうございますね、夕霧殿」  紫花という女の声に夕霧の目から安堵の涙が溢れた。  鬼祓いに保護されて屋敷に着くと、夕霧と俺は暖かな部屋に通された。本当は氷雨の元に向かいたいが命令に強い呪を重ねているせいか、足が全く動かないのだ。そんな中、泣き止まぬ夕霧に紫花が寄り添っていた。 「紫花とかいう女、お前は何者だ」  紫花は微笑んだ。 「今年、評定衆の末席に就きました者で、以前夕霧殿をこの屋敷に保護した際、頭領の奥方様と共に夕霧殿のお世話をさせていただきました」 「銀雪、この人は信用していいと思う」  氷雨と同様に、人の善悪に敏い夕霧が言うのならば大丈夫か。俺は涙を未だに流す夕霧の頬を拭う。 「夕霧、泣くな。目が真っ赤に腫れては父が悲しむぞ」 「うん……」  夕霧は小さく頷いた。紫花に夕霧を預けて氷雨の元に向かおう。その時、氷雨との契約の糸がぷつり切れたのを感じた。 「はっ………」  その瞬間、頭が真っ白になった。氷雨が死んだ……? 俺は口元を覆うと、何も考えられなくなった。  自我を取り戻した時、周囲から人の叫び声と何かがミシミシと軋む音がしていた。 「何故、青龍がこの屋敷を襲う!? 不可侵の約定を破る気か!」  誰かの叫び声と凄烈な青龍の神気が屋敷の結界を打ち破ろうとする気配がした。  青龍と聞いて思い浮かぶのは十代後半の厳しそうな顔の少年。ただ氷雨には思うところがあったようで、一年に数回程様子を見に来ていた上、夕霧には少し優しい表情で接していた筈。あいつが簡単に敵になるなど信じられない。 「夕霧殿、早く此方に……」  紫花は驚愕の表情で屋敷の外を見ると、夕霧を奥の部屋に連れていこうとした。その時、結界が砕かれる音がした。ばらばらと氷の塊が降るが如く結界が崩れていく。そして次の瞬間、風を切り裂く矢の音がした。嫌な直感がして咄嗟に夕霧を庇うと、肩を矢に抉られた。木行でありながら青い神気が肉を抉り蝕む。そのあまりの痛みに俺は思わず踞る。 「ぐっ……う……」 「銀雪……!?」 「銀雪殿!」 夕霧と氷雨が俺に呼び掛ける。俺は作り笑いをしながら肩を押さえた。 「大丈夫だ……」  早く夕霧を連れて逃げなければ。 「銀雪殿逃げて……!」  その時、紫花の悲鳴がしたとともに、二本目の矢が放たれる音がした。紫花が咄嗟に霊力で障壁を作ろうとするが間に合わない。ああ俺も死ぬのか。別にいいか。氷雨の死んだ世界でどう生きろと言うのか。そう諦める俺の視界に青い神気を纏った矢が一直線に向かっていく。そして耳に矢が肉に突き刺さる音が響いた。  俺が目を開けると金糸の髪が視界を覆っていた。やがて風が吹いたようにその金糸の束がはらはらと靡く。 「銀……雪」  そこで俺は気づいた。夕霧が俺を庇って矢を受けたことを。 「夕……霧……?」 夕霧は振り返ると、氷雨と同じ優しげな笑みを浮かべて笑う。そしてその場に夕霧が倒れた。 「夕霧! おい、しっかりしろ!」  夕霧の心の臓の近くに矢が深く刺さっている。俺が夕霧を揺さぶっていると、紫花に肩を掴まれた。 「動かすと血が流れます。どうぞこちらに」  言われるままに夕霧を抱いて奥の部屋へと向かう。そして夕霧を寝かせた。  夕霧の息は既に微かなものだった。血が衣を染めていく。顔も既に死相が浮かび始めていた。 「こうなってしまえば頭領が来るまで持ちこたえるかどうか……」  紫花は絶望したような顔をしている。 「いや……まだ手はある」  こうなったのは俺のせいだ。俺が償わなければならない。俺は夕霧から矢を抜くと、手を押し当てた。 「銀雪殿何を……」 「俺の一族の秘術を使う。お前は危険だ。離れていろ」  そして、ありったけの妖力を注ぎ込んだ。妖狐の妖力は使いようによっては、自分の力と引き換えに誰かを助けることが出来るのだ。死ぬかもしれない。もう人の姿になったり、人と言葉を交わせる力すらも失うかもしれない。それでも構わなかった。ただ目の前の命には生きてほしい。それだけだ。死相が薄れるに連れて夕霧の髪が銀色へと変化していく。 「夕霧……何をしてもお前を生かす……」  俺はまだ僅かに残った妖力を注ぎ込むと血を吐いてしまった。夕霧を見ると、夕霧の頬はいつもの薄紅色に戻っている。それに安堵した途端、意識が朦朧とし始めた。 「夕霧……」 俺は夕霧の小さな手を握る。氷雨と翡翠と俺の愛し子。どうかお前には幸せに生きてほしい。俺は涙を流すと完全に意識を闇に呑まれた。   「貴方は馬鹿ですね」  俺を抱えてお前が笑う。 「お前に言われたくない」  言い返すと、お前がばつの悪そうな顔をした。 「貴方はまだ天命を迎えていません。どうかあの子をお願いします」 「当たり前だろ。俺も夕霧を愛しているのだから」  人の姿でお前に口付けをすると、お前が目を瞑って泣いた。   銀雪が倒れた直後、紫花は襲撃者と応戦していた。襲撃者は特殊な呪が施された黒い衣を纏っていたが、それが青龍ではないと紫花は思い始めていた。青龍にしては神気が襲撃者本人から湧き出でていない。むしろ青龍の神気を奪って何かに貯めているような気がする。 「っ……」  紫花は腕を切り裂かれ呻く。此処は最悪なことに手薄状態。頭領の気配はまだ遠い。恐らく蒼宮殿を襲った犯人の捜索を始めた頃だろうか。命を懸けてでも此処を守らねば。そう思った時、青龍の神気を纏った刀が振り下ろされた。 「……叔父上どうか止めてください」  その声で襲撃者の手が止まった。 「私はどうなってもいいです。ですが銀雪と鬼祓いの方達だけは、これ以上傷つけないでください」  黒衣の男は唇を歪ませる。 「その言葉、言質と取った。来い」 「いけません。夕霧殿……」  夕霧を庇おうとすると夕霧は泣きそうな顔で微笑んだ。 「銀雪を……お願いします」  紫花が手を伸ばしたがその手は届かない。夕霧は黒衣の男に手を引っ張られると、何処かへ去っていった。

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