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第三話

 元々ルシアに友人らしい友人はいなかった。  小学部の頃、いじめられている女子を助けたことがある。荷物を隠されたり小突かれたり、心ない言葉をかけられているのを見ていたルシアは、その現場を見かけてすぐさまいじめっ子達に文句を言った。  くだらないことばかりするな。ここは魔法を勉強する場であって他人に嫌がらせをするところじゃない。  そう言って俯く彼女の前からいじめっ子達を追い払ったが、ルシアは我慢ならずに続けた。  ──お前が黙っているから彼等が調子に乗る。うじうじしている暇があるなら、教師なりなんなり相談しろ。お前らのせいで他の者も影響されるんだぞ、と。  彼女はルシアを睨めつけるように見て、礼もせず去って行った。  恐らくあの時も、自分はなにか、間違ったのだろう。 「……っくそ」  発情期が来た。  予定日は五日先のはずだったが、六度目の今回はいつもと違う。  深夜、ひどい疼きに目を覚ましたルシアは、震える手で専用魔法石を起動しベッドにうずくまった。今が夜中で良かったと、心底思う。  一度もずれたことがなかった発情期を不思議に思うよりも、ルシアはその異常なまでの熱さに魘されていた。  頭の中で過去の嫌な記憶が駆け巡ったと思ったら、次には身体中から汗が噴き出て、下腹部がしとどに濡れている。  主張している中心より奥の、腹の中が終始蠢いているような感覚で、不快感がひどく、何よりも恐ろしい。  オメガの発情期は、体が成熟すればするほど重くなる傾向がある。  だからオメガの貴族は若いうちから許婚を決め、発情期が来たらつがう相手と繋がり、発情期の苦しみを軽減する。  それらに該当しないオメガは恋人を作る。契約とは別の、将来の約束はない相手を。  そうして発情期を迎えなければ、症状の重いオメガは生きていけない。  そんなこと、十八も過ぎればルシアとて重々承知である。  だからいつも身綺麗にしてアルファの誘いを待っていた。 「ぁ……っ」  濡れたそこを擦り、探り、なんとか疼きから逃れるために手を伸ばす。だが、渇きはいっそうひどくなり、ルシアは涙を浮かべた。  中学部の頃、年上の背の高いアルファ男性に声をかけられたのを思い出す。 彼はオメガにしては態度が大きく、アルファのように振る舞うルシアを知っているようで、生意気な子が好みだと言っていた。  好奇心旺盛な瞳で見下ろされ、ルシアはなぜか対等に扱われていないと感じ、不快に思った。その頃はまだ発情期も訪れていない未熟なオメガで、そうして自分には価値があると信じていたのもある。  友人と呼べる間柄はいるとは言い難かったが、同じオメガなら挨拶を交わす生徒も何人かいたし、時折昼食だって共にしていた。  だからこそアルファのその瞳と軽薄さが気になり、ルシアは素気ない態度で彼を追い払った。  元々アルファから格下のような扱いをされることに我慢できず、授業でもその他でも言い合いや喧嘩になったことは数知れない。それにも拘わらず、お前はどうせオメガなんだから、という態度でルシアを誘うアルファはいた。  当然、全て断った。癪に障った事もあるが、大抵は話したこともない、見たこともない、そんな人間ばかりだったからだ。  だが、件のディライト騒動でルシアは孤立する。  挨拶を交わしていたはずの生徒も昼食を共にする生徒も今では誰一人、いなくなってしまった。  あれから一度だってアルファからの誘いはない。  ──ああ、今なら、誰でもいいから付き合うのに。  疼く熱と衝動に喘ぎ、ルシアはただ強く願う。  乱暴にされてもいい。どうされたっていい。  ただ苦しくて熱くて、ひたすらに痛いこの時間を──、終わらせて欲しい。  五日間、ルシアは食事もろくに摂れず、水分だけで過ごした。  心配した父が何度か来たが、扉は一度も開けずにいた。  症状が軽くなるときに水差しを引き入れ、後は途轍もない衝動に苛まれその身を慰め続けた。  痛みと渇き、熱と混濁、そんな苦しみに泣きながら、この身体がオメガであることを呪わずにはいられなかった。  ルシアがオメガであることを呪ったのは、この時が初めてだ。  次は、死ぬかもしれない。  壮絶な発情期を終え、ルシアはしばし茫然としていた。  発情期は五日間続いたがその後の二日間はただただ休養し体力の回復に努めた。  正直まだ講義を受ける気にはならなかったが、遅れは取り戻さなければならない。  なんとか制服を着て、櫛で髪を整え、ローブを羽織り香水をつけ、自室を出る。  階段を下り継母に会うこともなく、姿見を覗けば、げっそりとした表情の己と目が合った。  鏡に映るのは美しくもない、可愛くもない、誰からも好かれず嫌われている醜いオメガだ。  その事実に打ちのめされ、ルーティンである笑顔を作ることすら億劫になり、そのまま家を出た。  このまま恋人もできず、死んでしまうのだろうか。  誰からも、愛されることもなく。  ふらふらと馬車に向かうと、既にそこには先客がいて、いつもの金髪が目に入る。  覇気のない、猫背のアルファ。  いつものようにあちこちに寝癖をつけ、長すぎる前髪のせいで目線すら合わぬ冴えない幼馴染みの、レオン・シュヴァリエだ。  アルファはいいな、と思い、次にルシアは目を見開いた。 「……おはよう。大丈夫?」  いるではないか、ここに。  ぶるぶると震えだしたルシアを、レオンが無表情で見つめている。  手にはいつもの魔道具だろうか、小さな小箱を持っていて、そしてまた震えるルシアを差し置いてそちらへ視線を移した。  だが、ルシアは感動していた。  いるではないか。  ここに、  ちょうどいいのが。 「お、お前、許婚はいるかっ?!」 「え」 「いや、いてもこの際どうでもいい! レオン! 僕の恋人になれ!」 「……むり」  秒でルシアを振ったレオンだったが、その返事は予想通りだったので問題はない。  ルシアはこの先を生きるためならなんだってする気でいた。既にあの苦しみを、なによりも味わいたくなかったのである。 ◇ 「レオン、僕と寝ろ」 「……ルシア、またその話なの」  レオンが一番手頃のアルファであると気付いた瞬間から、ルシアは毎日こうしてレオンを説得にかかっている。  何も考えていなさそうだったレオンだが、さすがにこういった問題は別らしい。あっさり頷くだろうと思った誘いは、四日経った今でも変わらず、断られている。  なぜダメなのかと問うと、レオンの反応は鈍い。 「……よく分からないから」 「分からないのは僕も同じだ。だがオメガの発情期は死にそうなくらい辛い。それを知って焦っているんだ」 「……でもルシアは俺より他に、いい人がいるんじゃないの」 「いたらお前に声をかけてないだろう! 助けてくれと言ってるんだ!」 「でもルシアは……」 「ええい! お前は僕の何を知ってる! 恋人もいない男同士、なにを躊躇うことがあるっていうんだ! 同じ男なら喜んで飛びつく内容のはずだ!」  なにも子供を作るって訳じゃないんだぞ!  と怒鳴った辺りで、ルシアは我に返り周囲を確認し、誰もいないことに安堵した。  昼休み、いつものように大木の木陰に座り込んでいるレオンを見つけ、ルシアは大股で近寄った。  レオンはぼそぼそとサンドイッチを片手に魔道具をいじっては、地面に置いた分厚い本を読み込んでいたようだ。そこへ突然現れたルシアに驚いた様子もなく一瞥し、そのまままくし立てるルシアに相槌のような適当な断りを述べたので、とうとう苛立ちに声を荒らげてしまった。  ふう、と息を整えルシアはレオンの正面にあぐらをかいて座る。ちなみに他では絶対にやらないような座り方だが、相手がレオンならば関係ない。  じっと眼力をこめてレオンを見つめてやるが、彼は顔色一つ変えず本を読んでいる。  今日の寝癖は一段とひどい。  左から右へかけて強風が吹いて、そのまま氷付けにでもされたような毛先のはね具合だ。前髪は完全に目を覆うほど伸びているし、それだって横風が吹いているように斜めに固まっている。  毎日鏡で完璧を目指すルシアを前にして、レオンは常に容姿などどうでもいいと言わんばかりである。  実際、彼にとってはどうでもいい事に違いない。 「女子の方がいいのか?」 「……あんまり」 「ベータの方がいいのか?」 「……ベータ、よく知らないけど」  レオンの声は常に抑揚がなく感情が読み取れない。  断りの言葉を述べているのにそこに嫌悪は感じ取れず、だからといって親身な響きもない。  家が近所で小学部から同じ馬車に乗っている、幼馴染み。  あの頃は他にも乗っていた者がいたが、数年前からは常に二人きりだ。  朝食を摂らぬルシアは早めに学校へ行くのと、レオンは単に図書室の魔術書を読み漁りたいという一致からだろう。  馬車での会話もありふれたもので、中では挨拶だけで終わった日も多い。  それでも九歳から十八歳まで毎日顔を合わせていれば、なんとなく互いの家族のことや好みも知るようになった。もちろんそこに特別なものはなかったが。  思えば恋愛の話などはしたことがない。  そういう類いのものは、互いに無縁だったのだ。   「好きな者がいるとか?」 「……いないよ」  案の定の回答に、ルシアも頷く。  だがレオンとて十八歳の立派なアルファだ。今は地味で背ばかり高いが、好きな者ができたら変わるかもしれない。  つまり今しかないチャンスだった。  レオンが誰のものでもないのなら、誰かのものになるまで相手になってくれるだけでいい。  とはいえ、既に興味なさそうに魔道具に目を向けているレオンにルシアは半ば諦めかけていたが。 「恋愛をしろと言っているわけじゃない。お前にだって好みはあるだろうしな。だが許婚もいないのなら、僕のようなオメガを助けることに何の問題もないはずだ」 「……俺、よくわからない」 「ならお前は僕が死んでも心が痛まないのか? 生憎と僕はここで嫌われている。今更僕と寝てくれるアルファはいないし、協力してくれるような友人もいない。いや、いるとしたらレオン、お前だけだ。どうだ、友人として僕を助けてくれないか。なにも付き合えって言っているんじゃない。ただ……」  言っていてあまりの情けなさにルシアは泣きたくなる。  人気のあるオメガは、可憐で見目麗しく、アルファどころかベータからも愛される。  婚約の申し出も引く手あまたで、将来の心配はほとんどない。そうではないオメガだって、仲睦まじく手を繋ぐような相手がいて、周囲に花を飛ばすほど幸せそうだ。  本当はああいった恋愛を今だって夢見ている。  だが、身体の変化はルシアを待ってはくれない。  次の発情期で自分が狂い死ぬのをあっさり予測できるほどに、症状はきっと重くなる。  好いた相手と共にできる発情期は、オメガの憧れだ。  彼等はそのために自身を磨き、研鑽を積んでいると言っても過言ではない。だからいつかレオンにも、素晴らしいオメガが寄り添うだろう。  今は転移魔法に傾倒し、三度の飯よりそれが好きだとしても。  彼はアルファで、ルシアと同じように発情期に誘われる宿命を背負い、周囲の期待を一身に受けている。  だが、つがいにさえならなければ、彼の将来に傷をつけることもないはずだ。 「──僕を助けてくれレオン。でないと次は、きっと死んでしまう」  覇気のない声に何を思ったのか、いじり倒していた小箱からレオンが顔を上げる。  あの疼きと渇き。飢えと苦しみ。  それらが集まるとただの痛みに変わる。  ルシアはそれを先の発情期で知ってしまった。あれが少しでも軽くなるなら、一時しのぎだとしても多くは望まない。 「頼む、レオン」  ほとんど最後は呟きのような哀願だったが、ルシアは見逃さなかった。  小箱をいじる手を止めたレオンが、小さく息をつき、 「……わかった」  と頷くのを。

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