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第七話
心配だった問題を乗り越えて、ルシアは上機嫌だった。
レオンともそれから特に変わらず、いつものように彼は魔道具に夢中で、ルシアも将来のために勉強に集中しなければならない身だ。
特に苦手な魔法薬学と召喚魔法学は試験をパスするために猛勉強が必要で、ここ最近は暗くなるまで図書室に籠もっている。
というのも、次の試験が発情期明けにあたりそうだからだ。
周期が確定していないためあくまで憶測だが、それを含めても前後一週間ほどまともに勉強できなくなるとなれば、誰だって今から根を詰める。
だが、ルシアは驚くほど今の状態が苦ではなかった。
以前までは成績の悪さに辟易し自己嫌悪に陥っていたが、今はそんなものに悩んでいる暇があるならさっさと机に向かった方がいいと切り替えられる。
これは発情期への不安がなくなったのが一番影響しているのだろう。
それまでは一人で過ごさねばならぬ発情期に焦りを感じていたし、実際体調にも出ていた。
だが、先日レオンと身体を重ねてからはそういった不安が綺麗になくなった。
二人の間に特別なものはないが、あんな風に抱いてくれるのだと理解すれば恐怖も不安も消える。
一時はレオンの初心な態度からどうなるかと思ったが、案外彼はうまくやってくれたし、優しささえあった。
魔法薬学の魔術書を開き、ノートにペンを走らせる。
しばらく夢中で過去の問題集を読み解いていたが、司書が閉館の合図を出したのでルシアは背を伸ばし立ち上がった。
試験よりまだ時間があるからか、図書室にいる生徒はそう多くはない。さすがに小学部生の姿はないが、中学部から専門学部の生徒だろう人物は、ぱらぱらと見かける。
薬学の魔術書を元の場所にしまい、ルシアは自身のノートを持ち図書室を後にする。
ここから正門までは少し遠いが、西門前の馬車を利用するルシアにとって図書室は帰り道だ。どうやら同じ西門を使用する生徒はいないようで、ルシアは一人帰路についた。
すっかり暗くなった空には星々が現れ、銀砂のように夜空に散らばっていた。
黒に染まった木々が風に揺れ、葉の擦れ合う音が静かに響いている。
馬車は出たばかりなのか停留所に姿はなく、仕方なくルシアはベンチへと視線を移した。
と、項垂れるようにベンチに腰をかけている人影が見える。
目を凝らすとそれは学校指定のローブを着用した生徒で、俯く小さな肩が小刻みに揺れていた。
ルシアはその異様な空気に違和感を覚え、近付く。
泣いているのか。
不審者なら教師の助けがいるだろうが、雰囲気から男子生徒のようで、何よりも体格もルシアと同じくらいだ。
それに……。
「おい」
びく、とその影が顔を上げる。
目が合ったその栗色の髪と榛の瞳に、ルシアは息を呑んだ。
いつもならば小馬鹿にしたような表情でこちらを見るはずの彼が、今は無防備な表情でルシアを見上げている。
その瞳から透明のしずくが零れ落ち、頬を伝った。
慌てたようにルシアから視線を逸らした生徒は、誤魔化すように涙を拭う。
「──ディライト」
「っ、こんな時間まで君が校内にいるとはな。馬鹿だから補習でも受けていたのか」
鼻を啜りながらそう言われ、ルシアは怪訝に思い眉を寄せる。
ディライトはすぐに俯いてしまったが、一瞬見えたその顔の頬は腫れて、唇には赤い跡がついていたのは見間違いではないはずだ。
ルシアはぞんざいに彼の隣に持っていたノートを放り投げると、遠慮のない動作でディライトの顎を持ち上げた。
「な、なにをっ」
「傷だらけじゃないか。治癒魔法はどうした」
「うるさい、放っておけっ」
「唇まで切れてる。転んだわけではなさそうだな。……殴られたのか?」
「……っ、ちがうっ」
「……教師は……いや、騎士団の詰め所に行くぞ」
そう言って引っ張った腕を驚くほどの力で退かれ、ルシアは目を丸くした。
ディライトが、涙をこぼしながら震える声でルシアを睨みつけたからだ。
「いいか、絶対に余計なことはするな……っ」
「だが、その怪我は自分でつくはずがない」
「いいんだよっ、これは、僕が、悪かったから……っ」
「なぜ、お前が悪い」
困惑し、ディライトを見下ろしたが応えはない。
ルシアはしばらく彼を待ったが、その華奢な身体が震えていることに気付いて、放り投げたノートをどかし、ディライトの隣に腰をかけた。
ディライトとは顔を合わせる度に嫌味を言い合うような仲だったが、だからといって傷つき泣いている彼を見捨てる気にはなれない。
このまま放っておく訳にもいかず、ルシアはさりげなく彼の身体を確認しながら口を開いた。
「お前が庇うと言うことは、近しい間柄か」
「……うるさい」
制服のジャケットのボタンは外れ、ブラウスのボタンもいくつか無くなっている。
ローブから覗く左手首にはうっすらと赤い跡があり、一目見ただけでただ事ではなさそうだが、本人は大事にするつもりもないという。
となると、
「相手は恋人か。……ああ、お前には許婚がいたな、たしか──」
「アンリ様は、決して乱暴な方ではない!」
声を荒らげたディライトに、ルシアは驚き口を噤む。
アンリ・トーレーヌ。
最上級生のアルファで、校内でも常に注目されている男だ。
身分、家柄、容姿──、ここまで完璧な上、素行も成績も悪くない。尤も、立場上落とせないと言った方がいいだろう。
アルファの中でもエリートである公爵家の彼は、端的に言うと王族だ。
当然ルシアも知っている人物だが、思えばディライトがそれを自慢しているような素振りは見せていなかった事に気付く。
ルシアに許婚がいないことを揶揄っていただけに、ここぞとばかり自慢してもいいような相手だが、なるほど、そうしなかったのは理由があるようだ。
「暴力を受けたなら、お前は被害者だ」
「……受けていない。安心しろ」
落ち着いてルシアが言うと、ディライトも幾分か冷静を取り戻したのかボソリと答える。
腫れ上がった頬でそんなことを言われても説得力は皆無だ。
だが、相手が王族ということで強気には出られないのかもしれない。
ルシアはどうディライトを説得し、被害を受けたことを告白させるか考えた。
しかしそんな思惑を知ってか知らずか、ディライトはルシアの視線から逃れるように、口を開いた。
「どちらにしろ部外者の君には関係ない。僕のことは放って帰れよ」
「オメガに乱暴を働く者がいるなら、いくらお前のことが嫌いでも、見過ごせない」
「……君、本当に鬱陶しい男だな!」
苛立ちを露わに目をつり上げたディライトは、ルシアから逃れるように立ち上がる。
「おっと、喧嘩かい?」
そこへ、第三者の声が聞こえ、二人は同時に飛び上がった。
気配など一切感じなかったが、右手からゆっくりと歩いてきた男が面白そうな声音でディライトとルシアに近寄ってくる。
黒いローブに深いフード。
見るからに怪しい出で立ちで、怪訝に思った二人を見てか、男はすっとフードを取り払った。
白金の髪がさらりと流れ、人形のように整った顔立ちが露わになる。
しかし、見覚えはない。
「……うそ」
「誰だ」
ルシアが心のままに問うと、ディライトが驚いたように振り返る。
男もそうだったのか、色素の薄いブロンドの眉をつり上げ、面白そうに口角を上げた。
「俺は……そうだね、ここの卒業生だよ。今日はたまたま恩師に用があって来たんだけど、何やら小さい子達が揉めてるみたいだし大人の力が必要かと思って」
眉尻を下げて笑われ、ルシアはぴくりと頬を引きつらせた。
「小さい子だって? 僕等はここの専門学部生で、十八歳だ」
「ああ、オメガって言った方がよかった?」
──こいつ。
ここで気のせいではなく男が悪意のある言葉を投げかけたのだと知り、ルシアは男を睨んだ。
随分と綺麗な顔をした男だが、纏う空気は重苦しい。その重圧を感じるほどの存在感は、当然アルファだろう。
「それにこっちの子は怪我してる。どうした? その子にやられたのかい?」
「え、あ……」
「僕はそんなことしないっ」
ディライトは男の雰囲気に圧倒されているのか、上擦った声を出すだけで、ルシアは慌てて否定した。
笑みを深くした男が、ゆっくりとこちらに歩を進める。
立ったままだったディライトが気圧されるように、もう一度ベンチに座り込んだ。
逆にルシアは逃れるように立ち上がったが、離れようとしたのを制したのは男だ。
「暴力はいけない。専門学部生なら尚のこと、教師よりも騎士団に突き出した方がいい案件だ」
「僕も、そう思ってる」
「へえ、きみじゃないっていうのは本当かい?」
「当然だ!」
ルシアの答えに男がそうか、と頷いてディライトを見下ろした。
「いいことを教えてあげよう。騎士団の詰め所に被害届を出すなら、こういった魔法が使われる」
──吐け。
男の白い指が、真っ直ぐディライトを指した。
茫然とする二人を前に、ただ一言放った男が、静かな声音で問いかける。
「きみの頬は腫れて唇が切れている。この怪我は誰にやられた」
ディライトが虚ろな瞳で震える声を出した。
「……アンリ様の肘が、僕にぶつかって」
「アンリ……。アンリ・トーレーヌか」
「はい」
「手首の痕跡は」
「アンリ様が僕を押さえつけてできました」
「ふうん? 見たところ、君の着衣も乱れている。一体何があったんだい」
ルシアは目を丸くした。
先ほどまで何があったのか明かそうとしなかったディライトが、今は素直に口を開いている。
男は指を一瞬かざしただけで、それ以降は何もしていないのを見ると、最初の指の時点で無詠唱呪文を放ち、ディライトを術にかけたのだろう。
恐らく、犯罪捜査に使う自白呪文だ。
この魔法は許可された一部の魔道士にしか扱えない呪文のはずで、それはつまり、この男がそういった特殊な職に就いている事を意味している。
「……空き教室にいらっしゃったアンリ様に、抱いて欲しいとお願いしました」
「へえ……それで?」
「アンリ様は嫌がられて、迫った僕を振り払った。その拍子に肘が僕の顔にぶつかって、僕は倒れ込んだ」
ルシアはその言葉に驚き、ディライトを見遣る。
彼の瞳は既に力を取り戻していたが、そう吐露してしまう自分自身に戸惑うように複雑な表情を浮かべていた。
「それからアンリ様は僕にお怒りになって……もう二度と触れるな、と僕の両手を押さえつけて……お前みたいなオメガにはうんざりだ、と」
ディライトはそう言いながら、耐えきれぬように涙をこぼした。
声だけでなく、全身を震わせ、悔いるように唇を引き締める。
腫れ上がった頬は痛々しく、だが彼は罪を享受しているようにも見えた。
ルシアは言葉を失い、眉を顰める。
暴力を振るわれたと思っていたがそれは間違いで、この場合むしろディライトの方が加害者と言ってもいいのかもしれない。
ディライトの言ったとおり、アンリはディライトを傷つけたわけではなかった。
早計な判断をしそうだった事に、反省する。
「つまりきみは嫌がる相手に迫り、それを拒んだ被害者から振り払われ、弾みで怪我をしただけだったわけだ。なあんだ」
男が笑った。そうして、一言。
「いつものオメガの行動だって訳だ」
カッと頭に血が上るのが分かった。
「なんだその言い草はっ。僕等オメガがいつもそのようなことをしているとでも?」
「ん、なにか違うのかい?」
男が冷酷な眼差しでルシアを捉える。
咄嗟に口を開き反論しようとしたルシアだが、ハッとレオンを思い浮かべ言葉に詰まった。
──僕の恋人になれ!
そう言ってつい先日、幼馴染みに関係を強要したのは自分だ。
そうだ。自分はディライトと何も変わらない。
アルファであるレオンに無理を言って迫り、相手の同情心につけ込んだ。ディライトと違うのは、最終的にレオンが拒絶しなかっただけ。
沈黙したルシアを見て、男は満足そうに頷いて笑った。
「オメガは、いつもそうだ。俺たちアルファを道具のように使い、そして被害者ぶる」
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