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第八話

 被害者ぶるだって?  そんなつもりはない。  だが、脳裏を過ったのは継母のあの言葉だ。 『お前のせいで、多くのアルファが迷惑を被る』  以前校内で発情期を引き起こしたディライトにもそう言い、彼を責めたのは自分だった。この男と同じように、迂闊な行動であると一方的に。  今思えば、反感を買うのは当然だ。結果論だけで物事を判断しても、心はついていかない。  オメガは確かに、アルファを誘うフェロモンを出す。  発情期の軽重も個人差があり、ルシアのように重く出る者もいれば、そうではない者もいる。だが皆がフェロモンを出すのは決まっていて、本能的にそれに逆らえぬアルファからすれば、たまったものではない存在だ。  けれど、だからといってそのすべてがオメガのせいなのか。  ちがう。  誰もが好きでオメガとして生まれたわけではない。  アルファが拒むように、オメガもまたその衝動に苦しみ悩み、傷ついている。 「じゃあ、これで解決かな」  仕事は終えたとばかりに肩を竦め、踵を返し立ち去ろうとする男に、ルシアは制止の声を上げた。 「──まだだ。犯罪捜査なら、動機も訊くだろう」 「……動機?」  男が歩を止めた。  ディライトは力なく項垂れている。  その様から既に術は解けているとわかるが、ルシアは男に毅然と言い放った。 「ディライトが許婚に迫った理由も聞かず、一方的に断罪するのは間違っている」 「──なるほど」  男はすんなり肯定すると、面白そうに口角を上げたままディライトを見下ろした。 「教えてくれるかな」 「ディライト、この際だ。どうしてそんなことをしたのかすべてぶちまけろ」 「……僕は」  ルシアは偶然、この時間に西門を通り抜けた。  許婚に手酷く拒絶され、一人ベンチで泣いていたディライト。  彼にとってこの時間は誰にも悟られぬ、一人だけの時間だった。そこにはいつも得意気にルシアを揶揄い、対峙する男はいなかった。  ディライトの涙は家族にも誰にも晒すことのできぬ、秘められた思いだ。  許婚でもある者に拒絶されている理由は、簡単に想像がつく。当事者ならもっと肌で感じていただろう。  それでもディライトは、相手の憤りを目の当たりにし、彼を傷つけたことに反省し、一人でその罪を抱え座り込んでいたのだ。 「ゆっくりでいい」  ルシアがそう声をかけると、涙が再度こみ上げてきたのか、ぐす、とディライトが鼻を啜る。 「……一年前に、初めて発情期を迎えました」  ──同じだ。  やがてディライトはぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。 「アンリ様と許婚になったのは幼い頃で、僕はそれを疑問に感じたことはなかった。だから当然、発情期を一緒に乗り越えてくださると思っていた」  だが、アンリは初めて発情期を迎えたディライトの頼みに、応じることはなかったという。 「最初は、家のことで忙しいと断られ、二度目も同じ理由で。三度目は理由さえなく無視をされ、僕は一人で乗り越えなくてはならなかった」  さすがのディライトも、アンリの対応に彼の真意に気付いた。  だが気付いても、発情期は待ってくれない。 「僕の発情期はどんどん症状が重くなり、このままでは命に関わると診断されました。……アンリ様が僕を抱くつもりはないのだと分かっていた。だから、僕は……」  貴族同士の婚約は様々な思惑があるのは当然だが、ディライトは素直にそれを受け止めていた。  だからこそ、身体の欲求を持て余してきた発情期は、ひどく惨めで寂しかったことだろう。 「きみは、相手が嫌がっていると知りながら、その欲求を満たそうとした」  男が言う。  ディライトは小さく頷いた。 「……初めては、アンリ様がよかった。最初で最後の、お願いでした」  そう言って顔を上げ遠くを見つめたディライトに、ルシアは目を伏せた。  愛されたい。  そんな願いをルシアもずっと持っている。  特に発情期の飢えと渇きは、どんなオメガでもその欲求を抑えられない。  少しだけでもいい。その時だけでもいい。誰かが寄り添って、時を共にしてくれたら。  ルシアと違い、ディライトはその想いをたった一人に願っていた。だがそれは相手にとってはとても傲慢で身勝手な本能だ。 「明日、僕の発情期が来ます。もう、一人で乗り越えられそうにもない。……だからせめて愛する方に一度でも、と……」  玉砕覚悟で、ディライトはアンリと会ったのだ。恐らく既にこうなると予想していながら。  拒まれれば、ディライトはその身を他の誰かに任せる予定だったのかもしれない。  もちろん、他の者を受け入れたオメガをアルファはよく思わないだろう。それが許婚であれば尚更。  彼の目的がそれを狙っていたのかも、違うところにあるのかも分からない。  だが、ディライトはそれだけ切羽詰まっていたのだ。  あの苦しさから逃れたくて。  ──いいや。  ルシアは無意識に拳を握る。  本当は、愛する男に救って欲しかったはずだ。 「馬鹿なことをしました」 「そうだね」 「っ、お前!」  ディライトの言葉に男はあっさり頷いたので、ルシアは思わず抗議した。  恐ろしいくらいの発情期の苦しみをアルファである男は知らないからだ。  だが、男は小さく息をつくとその長い両手をズボンのポケットに突っ込みながら続ける。 「少し前に製薬研究所が発表した抑制剤は、効き目が弱く、発情期の苦しみを軽減するだけでアルファを誘うフェロモンは完全に消えない。オメガは死から免れるが、その代わり副作用で魔封じ状態となり、うなじは無防備になる」  失敗作とされている、発情抑制剤だ。 「特定のパートナーがいないオメガは誰とも分からぬ相手とつがいになるのを避けるために、結局、その抑制剤を使用しない。──だが、きみのように発情周期が安定しているオメガなら、話は別だ」 「──え」  これにはディライトだけでなく、ルシアも驚いた。 「確かに、欠陥だらけの抑制剤だけどね。一人で乗り越える覚悟があるならそれを飲めば少なくとも死ぬことはない。発情期に入ったら部屋に閉じこもって専用魔法石を起動させれば、どんなに屈強なアルファでも突破できないだろ」 「そうなのか」  ルシアが言うと、男は頷いた。 「当然、周期が不安定なオメガがそれに頼ったら間に合わない事もあるから安易に飲めない。でも、そうじゃないオメガには一定の効力があるんだ。……きみは両親に相談し、薬を頼んだ方がいい」  もちろん、いくら死ぬことはなくとも発情期の苦しみを耐えなければならないけど。  と彼が続けると、ディライトの瞳に力が戻っていく。 「あと……、アンリの家は今、確かに大変な時期だ。思うに、きみたちは一度、話し合ったらいい。きみが今俺に話したことをアンリにも伝えるんだ。当然アンリにもまた、言い分があるだろうから」  これにはルシアも頷いた。  二人がどれほどの仲なのかは分からないが、少なくとも許婚である以上、十分な意思疎通は必要だ。 「じゃ、今度こそ解決かな?」  にっこりとルシアに向かって男が笑みを作る。わざとらしいその仕草にルシアは不快に眉を顰めたが、渋々頷くと、今度は声を出して笑われた。 「きみ、本当に面白いね。変な匂いがする割にオメガだし、その癖アルファみたいに不遜だ。その匂い、最近ベータ達の間で流行ってる、香水だろ」 「……知らん」  これはレオンに、貰ったものだ。  いつだったか登校中の馬車の中でそんな話になった。 「そういえばお前、僕に誕生日プレゼントをくれたことあったか? 僕はお前に菓子を二つほどあげた記憶がある」と言えば、レオンはどうでもよさげに「それ、十歳頃の話でしょ……。しかもルシアが嫌いな菓子」と反論され、面白くなくて「十八になって数ヶ月経つが、まだプレゼント受け付けてるぞ」と返したのだ。  もちろん冗談だったが、その翌日、レオンはルシアにリボンのついた小さな包みを持ってよこした。  それが今つけている香水だ。  ベータの流行などルシアも、ましてやこれを贈ったレオンも、知っていたわけではないだろう。  それでもその時のルシアはレオンに感謝したのだ。  継母にいつもひどい匂い、と言われていたから。 「……あ」 「ほんと、そんなのつけてたらこの学校では嫌がられるんじゃない? 鼻の利くオメガとアルファばかりいるのにさ」  ひどい匂いだ! 揶揄われていた言葉が蘇り、もしや、と声を上げたルシアに男が気付きもせず続ける。  ルシアは眉根を寄せた。自分がずっと、勘違いをしていたのだと気付いたからだ。  つまり、普通のオメガは、香水などつけない。 「……彼は間抜けなんです」  ぼそ、とディライトが言うと、男は更に噴き出した。  あはは、と快活に笑い声を上げる男に今まで自分が匂いで揶揄われてきた理由を知ったルシアは、その様をただ見つめる事しかできない。  そう、アルファやオメガの中だと香水は否定的なもので、ましてやそれは常識だったらしい。 「かわいい顔してさ、気が強くて生意気で、なのに間抜け。いいねえ、きみ、名前なんていうの」 「……名乗らない奴に教える名はない」  ルシアの答えに、ぷっと更に噴き出す男。  だが、次に顔を上げた男が唐突に笑みを引っ込めた。  何事かとルシアとディライトが身を固くすると、次に男は柔らかく口元を緩め、小声で言った。 「……残念。ここまでかな。じゃ、またね」  そうして、身を翻したと思えば、そこは何の変哲もないただの西門前の風景が戻る。  入れ違うように校内から出てきたのは、教師か事務員だ。  会釈をすれば会釈をされ、そのままどこかへ去って行く。その背をなんとなしに目で追いながら、二人は感嘆とした。 「……凄い」 「転移魔法を魔方陣なしで自在に操っているのか、どんな魔道士だ」  ルシアが呟くと、ディライトが胡乱げな瞳をよこす。 「さっきからまさかと思ってたが、本当に知らないのか」 「なんだ、有名なのか」 「……いや、知らない方がいいこともあるか」  ぶつぶつと言われ、ルシアは眉を寄せる。  そういえばあの男、アンリ・トーレーヌと知り合いのような口ぶりだった。  となると、かなり身分が高いのかもしれない。  恩師に用があって来たと言っていたし、あれだけの魔法を使えるなら身分だけでなく、元々住む世界が違う人間だろう。  黒魔法学に精通していて、特殊な職に就いている。魔道士の中でもかなりのエリートなはずだ。  尚のこともう会う事もなさそうだ。  そう結論づけて、ルシアは頷いた。  無礼な態度を取ったという自覚はある。もっとも、彼も無礼だったが。  僅かな沈黙が広がったが、ようやく馬車が来た。  ディライトが立ち上がったので、ルシアは驚愕した。 「同じ方向だったのか」 「君、何度か一緒になったことあるぞ。小さい頃だけど」 「そうだったか」 「……間抜け」  隣同士は当然嫌なので、二人は自然と向き合って座る。  緩やかに動き出す馬車は見慣れた道を進み、ルシアはディライトの顔を見た。  傷が、そのままだ。  基礎白魔法学を履修している専門学部生なら、軽い傷は自力で治せるはずだ。  それをしなかったのは極端に白魔法が苦手か、その体力、気力を失っていたかのどちらかになる。  後者であることは明白だった。身も心も傷ついていたディライトに、そんな余裕はなかっただろう。  ついたばかりの怪我なら僅かな魔力で済むが、ルシアが見た時もそれなりの時間が経っていたように見えた。腫れあがるほど時を置いてしまえば、治癒魔法は治療魔法に変わり、より難しくなる。  しかしルシアに躊躇はない。  揺れる馬車の中、ルシアはディライトの前で片膝をついてしゃがみ込み、目線を合わせる。驚いたように固まるディライトの頬に、指を当てた。 「っ、なに」  静かに呪文を紡ぐと、ディライトの瞳が見開かれた。  それでも動こうとしなかったのは、ルシアの意図を踏んだのだろう。  ディライトの頬の腫れが少しずつ引いていく。切れた唇の端は傷が修復され、新しい皮膚に覆われた。  すっかり元の顔つきに戻ったディライトを確認し、ルシアは指を離した。  傷の修復は好きだ。身体の細胞を活性化させ、再生を促す魔法は、いつ見ても面白い。 「元の憎らしい顔に戻ったな」  立ち上がり、ふん、と言い放つと、ディライトは虚を衝かれたような顔をしたが、すぐにルシアから目を逸らしぼそりと答える。 「君、白魔法だけは得意だよね」 「馬鹿言うな。他の魔法学も満遍なく得意だ」 「嘘つけよ」  じろりと睨まれたが、馬車が止まったので反論はしないことにした。見慣れた小さな屋敷への門が目に入り、馬車を降りる。  扉を手で押さえながら、ルシアはゆっくりとディライトに向き直った。 「悪かったな、あの時のこと」  あの時のディライトは、きっと初めての発情期だった。もしアンリ・トーレーヌを探し、助けを求めていたのなら、あんな風に一方的に叱ったのは間違っていたのかもしれない。  しかしディライトはルシアの謝罪に穏やかな瞳でただ一言、  「……傷を治してくれて助かった」と答えるだけだった。

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