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第九話
◇
ここしばらく、ルシアはレオンを見る度に、喉元まで出かけた言葉を飲み込む動作を繰り返している。
本日は、講義終わりにばったり出くわした。
レオンは袖をまくったシャツ一枚にズボンという出で立ちだったので、アルファ達の剣術講義の後だと理解したが、寝癖とは違う乱れた髪にどんよりとした眼差しを見れば、ろくな目に遭わなかったのだろうと想像はつく。
「大丈夫かお前」
腕の擦り傷に気付き声をかけると、レオンはルシアから目を逸らし、「放っておいて」とぶっきらぼうな返答をしたきり、踵を返して行ってしまった。
このような対応は日常茶飯事で普段ならさほど気にもとめないが、ルシアはその背を見てどうしようか考えあぐねる。
昼休み、いつもの大木の下で座り込んで魔術書を広げているレオンを発見し、ルシアは何も言わず正面に座り込んだ。
ルシアが来たことに気付いているはずだが、レオンの反応はいつも通りない。
実は一連の出来事の後、ルシアにはずっと胸に引っかかっていることがある。
目の前で分厚い本を広げぶつぶつ言っているレオンは、周りに流される事を厭い、空気を読むこともしないが、優しい男だ。
死にかけたオメガが目の前にいたら、恐らく文句を言いつつも結果として助けるだろう。
でなければただの幼馴染みである自分も、レオンに抱かれることにならなかった。
「……転移魔方陣は、魔法石に組み込めそうか」
「……ん、いくつかの古代魔術書読んだんだけど、原則として時空を操る魔術は質量の情報を正確に転送しなければならないから、今の転移魔法も転移する対象が自分自身だと一番簡単なんだ。でもこれを他の者、他の物体、となると魔方陣の書き換えが必要で更に複雑になり自由度も低くなる。つまり事前に魔方陣に記されていないものの転移となると、魔方陣そのものの構築から考え直す必要があるわけ。そこの呪文構築をどうするのかが一番の問題で、俺は決まった物を転移させたいわけじゃないから……色んなものを自由にどこかに転移させなければ、何の意味もないし……。色々読んでると一応失敗してきた呪文も記されているし、だから違う観点から調べ直した方が捗るかもって」
「へえ」
「でもルシア、質量って定められないものでしょ。だから皆苦労してきたんだ。どの物体も個体差があるし決まったものはないから。だけど、考えてみたら一部の上位魔道士達は魔方陣なしで転移魔法を楽に使う。きっとそこに何かがある気がする。魔方陣じゃなくて、理屈じゃなくて、無詠唱だからこそ魔法成功する理由が……。その呪文を魔方陣に書き起こすことができればそのうち魔法石にだって」
「……なあレオン」
再度ぶつぶつ説き始めるレオンに、ルシアはその真剣な顔つきを見つめながらぼんやりと口を開いた。
「お前、本当に僕の発情期を共にするのか」
ぴた、とレオンの口が止まった。
魔術書をめくる指が止まり、ルシアに視線を移す。
その碧色の瞳を真正面で見ながら、ルシアはレオンの今日の寝癖に感心していた。
「剣術講義で転んだのか? 葉がついているぞ。それに……いい加減前髪は切った方がいいな」
「……発情期、俺は必要ないの」
ルシアの言葉を無視して、レオンはただそう言った。
いつも通り無表情のレオンはそこに感情があるのか分からなくて戸惑うが、正直にルシアは答える。
「必要だ。必要じゃなければ、事前にだって……」
やっていない。
語尾は小声になってしまったがそれでもレオンに届いたようだ。
しかしレオンは僅かに困ったような視線をよこした。
「もしかして……よくなかった?」
「はっ? ばかっ、そうじゃないって!」
初体験のあれは、正直言ってしばらくは忘れられないほどの経験だった。
もちろん、いい意味でだ。
しかしそんな返答をされると思わなかったルシアは、あの時を思い出してしまい頬が熱くなるのが分かる。
慌てて否定してもレオンは微動だにせず、前髪で目は隠れているがその表情に変化はない。
その真剣な眼差しに耐えきれず、ルシアは深く息を吐いた。
結局、レオンに取り繕うことはできない。
なぜならそういった空気読みはルシアよりもしない男だからだ。
「……お前が、後悔するんじゃないかって」
「どうして」
心外そうなレオンに、逆にルシアは意外だった。
「だって……その、今更だけど初めては好きな人が良かっただろうし、発情期だって、好いた相手なら付き合うだろうけど、僕はその、違うだろ」
好いた相手。
レオンは僅かに首を傾げている。
その様子は、今の今まで考えたこともなかった、というものか。
そういった面で未熟だった男に、なんということをさせてしまったのだろうとルシアは更に後悔した。
やはり、発情期を無理に付き合わせるのは良くない。
今からでも件の抑制剤を取り寄せて飲んで備えていれば、次回の発情期も乗り越えられるだろうか。
ルシアの発情期は既に安定していない。
おおよその目安として予定を組んでいるが、確実性はなく、実際のところ試験にぶつかってもおかしくはない。
ルシアの父も以前は不安定な発情期を持つオメガだったが、抑制剤をよく思っておらず使用はしていなかった。同じようにルシアも症状が重くなってからは、パートナーを見つけるようにと遠回しに伝えてきたほどだ。
だが、あの正体不明の魔道士曰く、効果はちゃんとあるという。
彼ですらも、周期が不安定なオメガの使用は推奨していないようだったが、使い方によっては乗り越えられるかもしれない。
あの日から休んでいるディライトは、件の抑制剤を使い、家に閉じこもっているのだろうか。
「俺、嫌だったら断ってるよ」
考え込んだルシアを前に、レオンがぼそりと呟いた。
「大体、俺がいなかったら、発情期をどう乗り越えるの」
「……抑制剤が、あるんだ。それで……」
「ああ……でも、あの薬って殆どのオメガは使用しないって母さんが言ってたよ。薬より、オメガにはアルファが寄り添うべきだって」
「……そんなの、でもお前だって最初は嫌がってただろ。だから、本当は嫌なら、やめてもいいんだ。義務とかじゃなくて」
「怖かったから断ったのは本当だけど……、でも俺、ルシアだから、いいって言ったんだよ」
想定外の言葉だった。
レオンは瞠目したルシアを一瞥しただけですぐに魔術書に目を落としている。
「いくらオメガが困ってるからって、他の人ならやらない」
「……レオン」
「ルシアは、子供の頃から知ってるし、俺のことも知っててくれる。それに……俺がやりたくない事も向き合って教えてくれた」
それこそ、手取り足取り。
「だから困ってるなら、助けたいって思う。それじゃ駄目なの」
抑揚のないレオンの声は、どこまでも普段通りだ。
まるで、どうしてルシアが戸惑っているのか分からないとばかりのそれに、ルシアは困惑する。
だが、真意を探ろうと彼を見つめても、レオンに変化はない。いつも通り、我が道を行く姿だ。
昔から、嫌なことは絶対しない男だった。
教師や親に諭されても、同級生に揶揄われても、納得いかないものには手を出さない、そんな男だった。
そのレオンが、ルシアを助けると言う。
……甘えても、いいのだろうか。
「……頼んでも、いいんだな」
「だから、そう言ってる。嫌なら断ってるって」
「じゃあ……、その、恋人や好いた相手ができたらすぐにやめよう。僕も、なるべく早く迷惑かからないように努力するから」
「うん」
「だから、そうだな……。助かる」
目を伏せて、ルシアは心からレオンに感謝する。
正直に言うならば、抑制剤を飲んで死を免れても、もう一度発情期の飢えを味わうことは怖かった。
レオンに悪いと思っていても、本音は傍にいてほしかった。
恋人でも許婚でもない、ただの幼馴染みにこんなことを頼むのはおかしいとはわかっている。
けれどあの、手を繋ぎながらやさしく、互いに触れ合うような行為を発情期にできるのなら、何を差し出してもいいと思ってしまう。
いつかレオンに好いた相手ができるまで。
もしくはルシアにそう甘えられる人ができるまで。
それまでは、この幼馴染みに、甘えたい。
「……ねえルシア、今日は香水、つけてないの」
「あ、そうだ。お前、僕が匂いを気にしていること知っていたのか?」
「なんで?」
そういえば、と思い出したルシアはレオンが香水を寄越した理由を尋ねる。
するとレオンは顔を上げて不思議そうに首を傾げ、次にはああ、と頷いた。
「いつも、僕匂うか? って訊いてきたでしょ」
「そうか?」
「街に行った時、たまたま見かけたんだ。なんか、綺麗な瓶に入ってたし、ルシアが好きそうだなって思って」
「……そうだな」
美しい物は好きだ。
レオンから貰った香水は、貝殻を模した形の綺麗な小瓶で、中には薄い桃色の液体が入っていた。
可憐で可愛くて、貰ったルシアもすぐにそれを気に入ったが、それをレオン本人が選んだというのだから、驚きを隠せない。
「でもオメガは普通、つけないものらしいぞ」
「え、そうなの」
やはり知らなかったようだ。
このズレは、互いにろくな友人がいないことが原因かもしれない。
だからここ最近はつけるのを控えていると思わず笑うと、レオンはむ、と眉間に皺を寄せる。
「いや、そういう意味じゃない。嬉しかったよ」
慌ててプレゼントはありがたかったと伝えたが、レオンは首を横に振った。
「違う。ルシア、たぶん明日辺り、発情期来るよ」
「え」
「甘い匂いが、する」
「僕から?」
「うん。香水つけてもつけなくても、ルシアの発情期前は、ちょっと違う匂いするから」
「まさか」
「本当だよ。だからルシア、今日は早めに帰って。俺、明日ルシアの家に行くよ」
発情期は一週間以上先の予定だ。といっても当てにならないものだが。
それでも体調に前兆もないしそんな予感もしないのでレオンの発言に驚くばかりだったが、彼は至極真面目にそう言うと、じゃあね、と呟いて魔術書を持ち立ち上がった。
あっさりその場を後にするレオンに目を白黒とさせたが、我に返り時間を確認し、慌ててルシアも講義室へ向かう。
──発情期、来るよ。
そんな、匂いがするのだろうか。歩きながらルシアは腕を上げて思わず自身の匂いを確認したが、自覚はない。
そういえば、とルシアは突然思い出した。
継母もいつも「馬鹿なオメガの匂いがする」と言っていた。考えてみればそう言われた数日後には、発情期が来ていた気がする。
アルファがオメガのそういった匂いに──フェロモンに、敏感だと知ってはいた。
だが発情期の時期まで把握するとは思わなかった。
彼等がそこまで過敏なら、香水の匂いを嫌がるのも分かる気がする。
しかしレオンは、アルファでありながらルシアの香水を嫌がる素振りをしなかった。
それは鈍いのか、それとも彼の優しさだったのか──、寝癖だらけのレオンを思い浮かべ、否、前者だろうと考え直した。
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